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hkmaroのブログ

読書の感想など

四月二十六日

四月二十六日。雨。昼はサイゼリヤのペペロンチーノダブルサイズを食す。夜は西友の鶏唐揚げもどき弁当。

小沢が無罪となる。このニュースはきっと各方面を喜ばせるだろう。小沢自身の政治的主張は、小沢無罪を喜ぶ人々にとって重要ではない。むしろそのような実像はないほうがよい。小沢に対しては、なぜかある種の人々は色んな側面を読み込むことができたので、小沢を利用して自分の主張を広めようとした。例えば、反米思想の持ち主たちは小沢を利用した。単に小沢自身の主張が相対的に反米的である、というだけでなく、そのような小沢が常に権力のトップに立てないという事実が重要だった。「反米であることが今こそ重要なのに、その反米路線を打ち出している小沢が国策により権力から遠ざけられているのは、まさしくアメリカや日本の国家権力が反米思想を恐れているからだ」という論理が成り立つ。この<反米>の項は、あらゆる反自民党的な用語に入れ替え可能である。反新自由主義もそうである。反官僚癒着もそうである。あらゆる国政批判が、小沢を利用することにより可能となる。このような現象の行き着く先は言うまでもないが陰謀論である。小沢は革新主義と陰謀論の渦巻く政治的な象徴であり、小沢の動向は、小沢を利用する者たちにとっては、保守主義者たちにおける天皇陛下のように重要であった、というのが不敬であれば、少なくともジジババたちのアイドルである石原慎太郎のそれよりは百倍以上重要であった。しかし、そうであるならば逆説的に、小沢無罪というニュースは実は革新主義者や陰謀論者にとってゆくゆくは悪材料となる可能性がある。小沢は国家権力や、国家権力により洗脳されている大衆から、「悪者だ!」と糾弾されているからこそ利用価値があったのに、それが「実はそんなに悪くないのかも?」という空気が醸成されてしまうと、小沢が権力の座につけない「隠された理由」を語ることが不可能になる。「国策捜査説」という切り札が封じられてしまう。そうすると今後小沢や小沢の旗下にある諸政治家が権力を握れなかった場合、単に彼らの政治力のなさを、つまり政治家としての才能の無さをしか帰結しないか、あるいは最悪の場合言論のでたらめさを意味してしまう。小沢は、糾弾されているときこそが華だったのだ。もしも小沢がその辺の政治家と同程度にしか悪くないということになってしまった場合、これまで小沢を思う存分利用してきた人々は、今度はまた別の政治的象徴を探すだろう。いかにも弾圧の対象となっている政治家やそれに準ずる人を擁護しだすだろう。それに乗っかって相も変わらず反米、反財界、反官僚、反政界、反メディアを繰り返すだろう。反○○を語ること自体は大事なことだ。むしろ政治を語るにあたっては批判こそが何より大事だと私も思う。ただ、彼らが彼ら自身を政治的象徴とすることができるようになるまで、あと何年かかるのだろうか、と思う。いつまで彼らは小沢の、あるいは小沢的なものの腕に抱かれていなければならないのだろうか。泣く小沢、怒る小沢、笑う小沢、それらの様々な小沢の顔を利用しなければ、まるで小沢が無謬の存在であるかのように仮定しなければ、政治的言論におけるカウンターパンチは繰り出せないのだろうか。日本人は、アンチ・ボナパルトという、ボナパルトのヴァリエーションによってしか、ボナパルティズムを批判できないのであろうか。私はますます政治に関して無関心を決め込もうと思う。いや、正確には、政局に対しては常に無関心を決め込もうと思う。小沢という名のタレントの動向によって私の生活が左右されるなどという馬鹿なことがあってはならない。なにしろ私はテレビおよびテレビにまつわるあらゆるものを馬鹿にしているのであるから。

『リベラル・コミュニタリアン論争』読み始める。翻訳は呆れるほど読みにくくて腹が立つが、内容自体は非常に地道な本という感じで好感が持てるし、反論を考えながら読んでいると、ことごとくその反論が想定されていて心地よい。宮台真司宮崎哲弥は各々「リベラル」と「コミュニタリアン」を自称して対談などしていたが、この本を読んでいるといかに彼らがチンピラであったかがわかって嬉しい。十年くらい前、日本のチンピラ業界では英米における政治哲学思想のマッピング用語がそのまま知性を象徴するキーワードとして輸入され利用されていた。それがブームの観すらあった。リベラリズムコミュニタリアニズムリバタリアニズムネオコンサバティズム、マルチカルチュラリズム、カルチュラル・プルーラリズム、等等……。これらの用語を用いていたチンピラたちが明らかにしなかったことは、それらの諸イズムも論者によってかなり内実が異なるということであり、リベラルにも諸派がありコミュニタリアンにも諸派があるという、考えてみれば当たり前の事実であった。私は自分が一時期ほかならぬこういうチンピラ達の信者であったからこそ真剣に反省せねばならないと思う。吉本隆明が言うとおり、学問には手作業が必ず必要なのだ。チンピラどもにおかれましては、横文字の輸入に精を出す前に論文を書けよ。