hkmaroのブログ

読書の感想など

四月二十五日

四月二十五日。くもりのち晴れのち小雨。今日も結構暑い。20℃だったようだが、湿度が高いように感ぜられ、不快さにおいて昨日とあまり変わらず。昼食はてんやのねぎマヨ鶏天丼。夕食はローソンの鶏から揚げに甘酢たれをかけた弁当。鶏ばかり。しかも外食・出来合いもの。食生活を改善せねばならないと反省してみて思う。私は28歳にしては血圧が異常に高いようで、健康診断のときに、血圧を計ってくれた健診施設の人たちが「機械の故障じゃない?」などと相談していた。戦闘力の話であったらどんなによかったか。

コスモポリタニズム的倫理の可能性について考える。倫理の最高形態はコスモポリタニズムだと今考えている。もちろん、それが実現可能なのかどうかは別の話だ。実現可能な範囲において最も倫理的な態度がコスモポリタニズムだとは限らない。しかし、そうした現実のくびきを除外して考えたならば、あらゆる他人が自分と似たものであると考えることにより達成される無限の寛容こそが、そうであるがゆえにこそ一切の刑法や国際法を無用にするだろう。もしも万人が万人に対してあらゆる自由を認めたならば、逆説的に誰も今日犯罪と思われているような行為をしでかしはしないだろう。しかし、現実には誰かの自由を損なうからこそ、あるいは誰かの自由を損ない得るからこそ、自己の自由が達成されるような種類の行為が存在する。自分が目の前のケーキを食べる自由は、別の誰かがそれを食べる自由を永遠に奪う。ここにおいてケーキを食べ得る者の主観と、ケーキを食べ得ない者の主観とが生まれる。ケーキを食べ得る者の主観は、人には目の前のケーキを食べる自由が当然に存在する、と主張するだろう。ケーキを食べ得ない者の主観は、人には目の前のケーキを独り占めしてはならないという義務が存在する、と主張するだろう。思うに、これがコスモポリタニズムの不可能性である。このような二主観の乖離は、距離が隔たるにつれて広がるであろう。目の前にケーキがあるという事実を共有しているような互いに相対立する主観同士は、まだお互いの心理を許容はできなくとも理解はできるかもしれないが、そもそもケーキなるものの存在を知らないような主観との乖離は、一層深刻である。それは対立をすら構成しないかもしれない。こうした乖離の最も大規模なもののひとつが、たとえば私自身の国際政治への無関心である。私は他の国にどんなに貧しい暮らしを強いられている子供たちがたくさんいようとも、それを日常生活で案ずるようなことはないし、いったいそれをどのようにして案ずればいいのかもわからない。むしろ、そういう地球の裏側での「現実」をたてに、私の政治的無関心を糾弾するような人がいたらそれは狂ったスターリニズムだとしか思わないし、あるいは外国人など日本人より劣っているのだからどんなに不幸だろうが何も問題ではない、と開き直る態度もスターリニズムと同程度に合理主義的だと思う。そういう類の「国際政治」の利用は、きわめて卑近な利害関係の問題に収斂すると思う。いわば下部構造の問題に還元できてしまうだろうと思う。ゆえに、私はなお一層「国際政治」には関心を持たないように努めすらする。

しかし、こういうような乖離が大きいときほどコスモポリタニズムが私を魅了することはない。たとえば、ケーキを食べ得る自分がケーキを食べ得ない自分を想像することにより、ケーキを三分の一だけ他人におすそわけする、というような考え方が生まれるかもしれない。つまり、目の前のケーキは基本的に自分のものなのだが、ケーキを完全に獲得するためにはむしろ「ケーキを食べ得ない自分」にもケーキを分け与えねばならない、という考え方だ。おそらく人はこういう考え方はあまりに倒錯していると感じるだろう。ケーキを分け与える相手に自分を投影するよりも、目の前のケーキをすべて自分で食べてしまったほうが完全にケーキを味わえると思うだろう。しかしながら、人類が刑法や国際法に頼らない未来を迎えうるとするならば、こうした倒錯の元でこそそれは可能なのではないかと思われてならない。それに、目の前のケーキは常に自分ひとりで食べるのに適したサイズであるとは限らない。一人では食べきれないサイズかもしれない。そして、通常一人前のサイズだと思われている一切れのケーキは、むしろ一人で食べるには多すぎるのかもしれないとも考えてみることが可能だ。

私のコスモポリタニズムは、要するに、自分と他人の立場を交換してみるような考え方である。そして、そのようにして立場を交換して想像することのできる他人の範囲を広めようとする考え方のことである。そしてこれが、吉本隆明が「絶対感情」と呼んだものなのではないかと勝手に想像している。このような想像は、夢想家の訓練を積むことによって可能になる。立場交換の想像が、相手の現実にぴったり則している必要はないと思う。立場を交換してみようと考える心性を身につけることのほうがむしろ想像のリアリティよりも重要だと感じる。こういう私の考え方をもっと推し進めていくと、夢想家こそが最も倫理的な人間となり得る。小説の読みすぎ、映画の観すぎ、マンガの読みすぎ、そうした人々がよりよい社会の根拠となりうるとするならば、夢想家としての想像の能力が効果的に社会構想へと用いられた場合だと思う。