hkmaroのブログ

読書の感想など

四月二十三日

四月二十三日。雨。昼は生協食堂のマグロ丼を食った。夜は支給された弁当。しかもその後家に帰ってスパゲティまで食った。食わざるを得ん事情があった。腹を抱えておおいに苦しむ。

知識と思索の関係について考える。知識だけあるバカになるな、とかなんとかいう名前の本があるように、知識が豊富な人はしばしばバカにされる。本の読みすぎは下品であるとされることもある。知識が豊富な人とは、知識しかない人だと解釈されることもある。そして推奨されるのは思索である。理論である。感性である。表現である。低俗な言い方をすれば、知識の人とはがり勉の人であり、思索の人とは地頭の人である。最近私が読んだ本では、ショーペンハウエルが『読書について』で、なるべく本を読まずにすましてむしろ思索する時間を長くとるのをすすめているし、昔読んだ本ではモンテーニュが学識を批判していた。

私も基本的にはこれらの賢人に従う。つまり、知識の人とは往々にして知識だけの人であるということに賛同する。そういう実例を私も沢山知っているからだ。知識とは多くの場合符牒である。他人の体験談をあたかも自分の体験談であるかのように語れるのが、知識の特典である。誰かが自分の思索を表現したときに、知識の人は他人の思索でそれを論破しようとする。たしかにディベートの場では知識の人が勝つかもしれない。ディベートの勝ち負けは、当事者を含めてその場にいた人々全員のなんとなくのジャッジで決まる。少なくとも私が目撃したことのあるディベート的な対話においてはそうである。のちのち振り返ってみれば、勝ったほうの論理がなかなか怪しげなものだったということが明らかになるのは珍しくない。このことは、特に私がディベートのような、知識と機転が要求される場面を非常に苦手とするコミュニケーション弱者であることによって一層強く感じられる。なぜなら、ディベートの場では完敗したと思うのに、あとで思い返すと、相手がそもそも私の発言を遮って強引に一方的に喋っていたりだとか、どうとでも言えるあいまいなことで私の賛同を引き出そうとしていたりとか、ほんの二三個の主観的な事例のみで主張を一般化したりとか、という問題点が多数発見され、大変悔しい思いをするからだ。

とはいえあらゆる知識を遮断して思索にのみふけるのは、大変苦労もすれば危うくもある道だと思う。苦労して一歩一歩築いてきた自分の思索の全体が、同時代人によくある類型のひとつに過ぎなかった場合、その人の思索は無駄とは言わないまでも、固有の価値を持たないだろう。ほんのわずかでも、自分を客観視できるような知識を持っていれば、その人は自分の思索の問題点を点検して、さらに高度な推論に及ぶこともできたであろう。

そもそも知識という名の符牒とは性質の違う、思索、という行為はなんなのだろうか。思索することによっては知識を得られないとするならば、それをする意味はどこにあるのか。もちろんこの答えは明らかで、既存の知識のない場面で最も有効に働く知的能力を鍛えることができるから、ということなのである。そしてこの世界に生きるものは本来常に既存の知識のない場面を生き続けているはずなのである。この今でさえそうである。

知識があれば思索はより高度に行えるかもしれない。しかし思索抜きの知識は、ディベートに勝つことくらいにしか役に立たない。知識を得るときも、思索とともにでなくては意味がないと感じる。このことは、たとえば哲学的思索の本を読むときに一番強く感じるが、哲学に限らずどんな知識を得るときも同じである。知識のための知識はディベートに強い人間を生み出すが、そういう人間はえてして符牒の売り買いが得意なだけのチンピラである。他人の思索を符牒に押し込めて、まるでトレーディングカードをコレクションでもするかのように頭のアルバムにパンパンに詰め込む。ディベートの場は、それらのカードをいつ繰り出すかを計算する、カードバトルゲームである。

知識を否定するのはもちろん蒙昧だ。しかし知識を得すぎるのもやはり蒙昧だ。知性ある人は、新しく得た知識を自分の頭で反復し、批判し、別様の知識へと作り変えることができる。このような、知識へと操作を加えることができる能力を持つ人を、知識人と言うべきなのではないか、あるいは、知識人という言い方があまりに多くのイメージを負ってしまうならば、本当に知識に通じた人なのではないか。そういう人は、知識と知識を思索によって結びつけたり、知識を別の知識へ変化させたりでき、究極的には知識の体系を生み出すことができるだろう。それが一人の賢者の思想というものではないだろうか。