hkmaroのブログ

読書の感想など

四月二十日

四月二十日。昼飯はラーメン屋でラーメン+チャーハンのセットを食い、晩飯は新所沢にある野菜料理中心のファミレスで食った。

資本主義的な感性について考える。資本主義がどのような仕組みなのかについては私にはよくわからないのだが、毎日その中で生きている人々の、諸々の好みの傾向や、考え方の傾向については少し考えることができる。私が普段読む本の中には反資本主義を謳った本も多数あるが、それ自体が資本主義下における一商品として優秀であって資本主義とまったく矛盾しないどころかより強く回転させる「差異」であることも珍しくない。そもそもそうした本の多くが、いつも反資本主義の本ばかり出版している出版社から出ているのではないことをよく考えるべきだとも思う。本当に革命的な書物あるいは言葉は自費出版・自己出版でなければ出せないことは自明なはずだ。なぜドストエフスキーの『悪霊』で、印刷機というアイテムがあれほど重要だったのかを、私は何度でも思い出すべきだと思う。

資本主義の感性は、まずもって消費者に近寄ってくる商品を是とする。「あなたのお役に立ちます」という言葉とともに、どのように役に立つのかを説明することによって、これらの商品は消費者の生活に近づいてくる。だが、それだけでは不十分で、これらの商品は消費者の懐に入り込んだら、それと同時に彼らを遠いところへ連れて行こうとする。いかに役に立つかを実証することによってか、あるいは役に立つという経験を捏造することによってか、あるいは役に立つかどうかということすらどうでも良くなるような幻惑によってか、それを達成する。多くの場合、このプロセスは金額を支払う前段階で完了している。金を払ってしまえば、あとは消費者が満足したかどうかはあまり関係がない。それどころか、消費者が満足してしまわないほうが商品にとって好都合で、漫然とした不満足を消費者が抱え続けていたほうが、再度商品を売り出す際には好都合である。私の観察する限り、このような性質は資本主義下のどんな商品にも見出せると思う。資本主義的感性の下における商品は、自らは座したままで消費者から求められるのを待つ、ということがない。

近寄ってくる、というプロセスは、広告とそのまま同じではない。商品の中身もそのようなプロセスを内在化したものでなくてはならない。大衆にも受ける、売れる「芸術」作品は、大衆に理解できる程度のものでなくてはならない。その主題が大衆に理解できないものばかりだといけない。それと同時に、今度は大衆を遠くへ連れて行かなくてはならない。大衆に寄り添ってばかりだと、それは大衆の生活そのものと同じになってしまい、そのような商品は不要だということになってしまう。売れる「芸術」がどのようにそれを達成するかというと、たとえば<芸術を鑑賞する私>という消費者主体の幻想を作り出すことによってである。あるいは<芸術を理解する私たち>という芸術家と消費者の甘美な共同性を捏造することによってである。

そういう感性の下では、消費者たちは自分から優れた商品を探求しようとはしないので、商品の共同体を読み解くということができない。あまりにも多くの商品が消費者たちに向かって近づいてくるので、それを無視してまでも遠くにある商品を探すことが困難だ。情報を読み、理解し、自分にとって必要な商品をのみ選ぶ、という主体が形成されないので、今現在の消費者の感覚とそぐわないあらゆる商品は奇妙なものとして退けられて、それを解読するということが初めからバカらしいことと思われるようになる。そうした感性のもとでは、必然的に、歴史は常に忘却され続けるか、あるいは都合よく脚色されて新たな商品として鋳直され続けるだけだろう。私が坂本竜馬がどうしたとか言って騒いでいるバカどもに加担する気になれないのはこうした理由からである。それらの歴史的固有名詞は、消費者を慰撫するためにしつらえられた記号でしかない。

私は、人間の感性には保守的な感性と革新的な感性とが、大きく言ってあると思っているが、それらが各々資本主義的な商品の一様式に過ぎなくなってからは、資本主義的な感性というものが前景化してきたのではないかと思う。世界においてどうなのかは知らないが、少なくとも日本においては、現代ほど資本主義が資本主義的であったことはないだろうと推測する。それに比べれば、私はむしろ保守主義でさえいくらかマシだと思っている(もちろんここで言う保守主義とは現世否定の保守主義だ)。というよりも、革新的な感性が可能であるためには保守的な感性も同時にそこになければならない。資本主義的な感性とは、言わばバカがバカを生む感性であって、そのせいでこの世は要らない物で溢れ返っているとさえ思う、などと言ってしまうとよくあるオヤジの説教と五十歩百歩になってしまうのだが、消費者自身が自分にとって何が必要かを考えないこの世においては、必然的にそのようにならざるを得ないだろう。