読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

hkmaroのブログ

読書の感想など

四月十九日

四月十九日。昼飯はうどん屋で胡麻だれうどんを食った。晩飯はファミマのから揚げ弁当を食った。

人生のことを考える。人生には絶望するばかりだ。何も良いことがない。人生には各々のゴールがある。なりたい職業に就けた時、結婚できたとき、始めた事業が成功した時、有名人になれた時、人それぞれではあろうが、人生の目標というものがある種の人々には存在する。これらの目標があって、しかも達成できる人は幸福だが、私をはじめとする多くの人が、このようなゴールを持たない。故に、今なんのために生きているのかわからないし、いつまで生きていても生きている心地がしない。なんとなく「これじゃない」感を抱いたまま時間を空費していく。私は幸福な人を憎んでいる。幸福な人がいかに「やりがいの搾取」をされていようと、自業自得だとしか思わない。し、幸福な人は搾取されていようと幸福なのであって客観的にどんな過酷な状況にあろうが楽しいのだろうから一層憎い。幸福なのに不幸を気取る奴はもっと憎悪する。こうした人は身近にも結構いて腹が立つ。これらの人はいかに自分が不幸であるかを饒舌に喋り、話を聞かせる相手である不幸人と自分とを同じ土俵に置いておきながら、実質としては幸福である自分の有り様を見せびらかすことによって優越感を得ようとする。酷い奴は直接的に幸福な自分の有り様を語り出しさえする。話を聞かされる私たち不幸人は、その優越感・快楽のためのダシとなるわけだ。他人を目的でなく手段とするこのような態度を私は憎む。

私のように、あらゆる側面においてナンバーワンでもオンリーワンでもないワンノブゼムである上にコネもカネもないような人間は、のっぺりしたつまらん時間を過ごして死んでいく。いわゆる偉い人にはなれずに、似たような、同じような、変化のない、生きているのか死んでいるのかわからない毎日を過ごしているうちに、あれよあれよと言う間に歳だけをとり、何の知識も能力も身に付かないまま、金さえ貯まらず、足のつかない沖合の海でじたばたしているだけで溺れ死ぬのである。

しかし、私には私なりの神秘主義的理想にむけた信仰がある。それは、百年後だか一千年後だか一万年後だかわからないが、私が死んだ後の世の人間が、この寂れたブログを発見し、これに精神的な価値を見いだし、古典として称揚し、未来の図書館に列せられる、という未来への信仰である。そのために今現在毎日毎日下らんブログを少しでもマシにしようと努力し、書いている。言わば私は未来の人々に向けて書いているのであり、同時代人が本来の読者なのではない。私の存在が古典となることこそが、私の究極の理想だ。これは私が生きている間は実現を確認できないので、つまり実証できないので、信仰でしかないのだが、そういう思い込みが人生の精神的な助けになることは確かなことで、信仰一般における来世的なものの価値というものが、神も仏もない私にも少しはわかるようになってきたと言えるのかも知れないし、篤い信仰心を持つ人からすれば同じにされたくない馬鹿げた妄想なのかも知れない。もし私のブログが古典として認められるような世が来るとするならば、その時私の書いたものは他でもなく文学として受容される以外にあり得ないだろう。ゆえに私は文学にとりわけ深い関心を寄せる。

テレビ的な浮ついた人々の巣食うテレビ的な業界をやめることを真剣に考えている。本当なら一プロレタリアートとして肉体労働を志望したいのだが、脂肪だらけで肉体がなっていない私には長期間続きそうもない。おまけに根性もないのでなおさらである。今の会社は休日が少なく、どうせなら休日が今より多い会社がいいと思ってハローワークインターネットサービスをネットサーフィンしていると、結局どこの馬の骨かもわからんようなやつを雇ってくれる「年齢経験その他一切不問」的な会社は劣悪な労働条件を提示していて、今の会社と休日数があんまり変わらないということがわかってまた絶望した。

神様のメモ帳』シリーズを読んでいる。一切の必然性を欠いた共同体についての物語という感じ。非常に現代的な問題意識を感じる。文芸誌の小説なんかよりよっぽどまとも。もしもこの小説に感化されたラノベ読者たちが、全国津々浦々に独自のサークルを形成していったら、アナキズム的な、あるいはコミュニタリニズム的な革命が起こる可能性もないとは言えないと思うが、この小説を賛美していたラノベ「論壇」は多分まったくそういう読み方をしていないと思われる。ゆえに、無定見な読者たちはアリス萌えとか四代目かっけーとか友情サイコーとかいう空っぽな感想しか吐けない。これはもうまったくもってラノベ「論壇」の責任である。この小説のコミュニティ表象が他の凡百の「日常もの」を凌いでいるのは、学園に依存していないところだろう。階級だとか人種だとかを超えたコミュニティである、と言うのは簡単だが、この小説が描く在日外国人はみんな日本語ペラペラの実に日本的ないい人たちであり、その点にリアリティがあるのではない。まず舞台からして渋谷なのに田舎、っていうところがおかしい。そういう架空の舞台で、ぜんぜんキャラ属性の違うマンガ的なキャラたちがコミュニティを築く、というところが重要だと思う。あくまでキャラがマンガ的であるというところにポイントがある。これが変にリアルな外国人だったら、そもそもコミュニティを築くことの不可能性から描かねばならなかっただろうから、若者を革命へと感化させる前に個別の外交・政治問題に誘導してしまい、ちゃちい左翼小説になっていただろう。あるいは逆に未来人とか宇宙人とか超能力者がコミュニティを築くという話であったとしても、ラノベのごった煮性に回収されて「よくあるラノベ」というレッテルを貼られて安心して消費されてしまっていたであろう。架空のマンガ的ストーリーなんだけど、でもヤクザありドラッグあり、というダーティーな世界を描いたからこそラノベ的引力を回避できたのだと思う。なかなか精緻な設定だと思う。が、この作家は作品によって作風がまったく違う。あたりはずれが大きいと言ってよい。ので、どこまで計算して書いているのか疑問だ。