hkmaroのブログ

読書の感想など

四月十八日

昼飯は会社近くの擬似料亭で食った。またも猫がいる店で、飲食店で普通に猫を飼うその感覚はどうなんだと思わなくもないが、動くオブジェとしての猫は割りと様にはなる。夜はコンビニ弁当を食った。

労働者として自分の時間を切り売りしている最中であっても、私の頭は思索している。今日は共同体同士の交易と、市場と、貨幣の関係について考えていた。考えたことを日記に書こうとしたが、具体的に文章にしようとすると、交易と市場と貨幣の関係を簡潔にまとめることができなくてやめた。

私は、この一年間はラノベの年にしようと思っている。なぜなら、ラノベを楽しいと思えるのは長くてももう一年ないだろうという予感があるからだ。せっかくなら楽しめるうちにラノベを楽しんで終了させて、爾後の人生では文学と哲学に時間をかけたいと思う。文学とは小説のことを言っているのではなくて、昔の人が考えていたように、良く書けた文章のことである。グッドなライティングのことである。人間が書いた文章のほとんどがその対象になるだろう。文章について考えることによって、逆に、人間が知覚する対象のうち言葉を介さないものについての洞察にも役立つだろう。

不思議なことに、私は二十三歳くらいまではマンガ・アニメ・ゲーム・音楽の人生を歩んできたのであり、むしろ文章などほとんど無縁だった。せいぜい受験のときに使ったくらいである。今ではその関係が逆転している。もちろん今でもアニメ等にはたまに接するが、オタク達の話題についていくことはなかなか難しい。二十三歳から徐々に文章を読むようになったが、確か最初に意識的に読んだ文章は大江健三郎三島由紀夫であった。なぜこの二人かというと、阿部和重の『ニッポニア・ニッポン』の解説に二人の名前が出てきたからである。阿部和重は今も昔も文壇からは純文学作家として認知されているものの、実質的な支持母体はサブカルかぶれのオタク達という、なんだか信用ならないチンピラみたいな人であるが、当時の私は阿部和重が結構好きだったのでよく読んでいた。当然、ちょっと高尚なラノベとして消費していたし、あのチンピラ感こそが阿部和重の作家としての魅力でもあった。真面目に小説を書いている人々を馬鹿にしたような雰囲気がよかったのである。わが国においては、阿部和重といい、宮台真司といい、チンピラが若者を古典的な知へ誘う回路として機能している。そう考えると仮に本人たちの言ってること書いてることがチンピラそのものであったとしても、その仕事はなかなか偉いとすら思う。

哲学については、マルクスとグラムシを読むことを当面の目標にしたい。そこで基礎的なことがわかったら、英米系のマルクス主義批評を色々読んでみたいと思っている。そのころにはどうにかして職を辞してくだらないテレビ的な人々と縁を切っていたいところだ。