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hkmaroのブログ

読書の感想など

『ミニッツ 〜一分間の絶対時間〜』乙野四方字 感想



ミニッツ―一分間の絶対時間 (電撃文庫)

ミニッツ―一分間の絶対時間 (電撃文庫)

私立穂尾付学園高校一年一組、相上櫻。一分間だけ相手の心を読める『ミニッツ』能力の持ち主。“一年生にしてこの学園の生徒会長になる”―そんな大それた野望を持つ櫻は、この『絶対時間』を利用し、クラス内で“頼れるが妬まれない、愛嬌のある委員長”という絶妙な立場を演じていた。しかしある日、ふとした事がきっかけで、自身の秘密を生徒会副会長の琴宮遙に知られてしまう。櫻は、遙の弱みを握り返すため、彼女が提案する心理ゲーム『馬鹿と天才ゲーム』に挑む―。第18回電撃小説大賞“選考委員奨励賞”受賞!トリックとロジックが交差する、学園騙し合いラブストーリー。

私がこのブログでいくつかのライトノベルをレビューしてきて、なんとかその評価の基準として用いようとしたのが形式と内実という二元論的概念である。形式とは、こんなサイトでも話題になっているような、例えば「エロ」「萌え」「美少女」的要素であって、最近ある人はこれを「記号」と言ったし、例えば別の人はこういうものを「陳腐」「金太郎飴」だと言うだろう。こうした批判が無邪気かつ滑稽なのは、「エロ」「萌え」「美少女」に安易に頼らない物語をすばらしいと思っている彼ら自身が、そういうものよりももっと本質的に形式的な枠組から一歩も抜け出ていないファルス的願望むき出しの「陳腐」な物語を信仰していることに、たいていの場合気づいていないからだ。形式とは彼ら程度の頭で回避できるような単純な罠ではないし、それどころか形式は物語の創作に必要なものだし、形式が特定の内実を呼び出すことすらある。だが、毎週のレビューで感じたのは、逆に、内実が形式を呼び出してこそ作品が強力な意味を帯びるということである。内実の貫徹にはロゴスが必要なのだ。内実が充足しているからこそ、その表現には必然性が宿る。その小説がなぜそのようでなくてはならなかったか、という問いには、そういうお約束(=形式)があるからだ、と答えるのではなくて、むしろ論理的な説明により、無矛盾的な辻褄の体系を開示することが必要なのである。そしてその辻褄の体系に寄与するものこそが、必然的に呼び出された形式であり、このとき形式は内実に規矩を与える。そして、もうひとつ私が用いることにした美学という概念は、内実の系譜学的連関を意味する(もちろんここで言う美学とは、美意識という言葉と同じ意味で用いているものであり、aestheticの意味でのそれではない)。なぜ特定の内実が美的観念のコアとして共有されているかということは、いままでも繰り返し書いてきたように、謎なのであって、この謎を解き明かすための能力を私は持ち合わせていないし、多くの文献学的研究もこれを解くことは不可能だろう。文献学者は、これを事実として受容していくだけである。

今回の『ミニッツ 〜一分間の絶対時間〜』は、大河内一楼による帯推薦文の言葉を使えば、「知略バトル」ものというジャンルにカテゴライズされる小説で、もちろんこのジャンルの物語自体は珍しくないし、知略バトルの名作もあるのだが、ライトノベルに限らないアニメやマンガなどのオタク文化の物語が、「世界」だの「魔王」だの「神」だのというあまりにわかりやすく超越的な象徴を用いてきたことを顧みると、そのような象徴に必ずしも依存しないという意味でやや異端的なジャンルである。そうした異端的なジャンルにおいて、しばしばそのサンプル数の少なさかからか、あるいは異端という自意識が高まることによってか、系譜学的連関における相互参照が強まりやすい。著者の乙野四方字もあとがきでこう書いている。

 推薦文を書いて下さった大河内一楼さん。大変な驚きと喜びでした。打ち合わせ中に『ルルーシュ』という言葉を何度使った事か……少しでも追いつけるように頑張ります!

ここにわれわれは明らかな『コードギアス』と本作との系譜学的連関の具象を見るのであり、ここに美学の継承が行われているのである。この物語は、後半部分の展開があまりに前半部分の『コードギアス』的雰囲気から唐突に変化しているので、後半部分が「つまらない」とされて評価を下げているのだが、むしろ後半部分はいかにもラノベ的なハーレムラブコメモードへと再組織化されている。そうしたいかにもなラノベを、むしろラノベオタが「つまらない」と感じることはどうしてなのかについて、真剣に考えるべきである。『ブギーポップ』シリーズと『涼宮ハルヒ』シリーズは、ラノベでありながらオタク文化とその外の領域を越境したラノベであった。両作品を読んでみればわかるが、これらは明らかにラノベ的でない強固に練り上げられた文体を持っている。オタク文化圏外の諸要素が、文体に受肉しているのである。それにも関わらず、単にラノベオタクじゃない層にも読まれた、というだけでなく、ラノベオタク層にも熱心に読まれたということが重要だ。仮説として帰結するのは、ラノベ的ラノベはそもそもラノベ読者にとってさえ「つまらない」のではないか、ということなのである。この問題については機会を変えて再び論じることにして、ここではこれ以上立ち入らないことにする。が、さしあたって指摘しておかなければならないことは、ラノベがマンガ・アニメ・ゲームの従属物である、というイデオロギーは、なおその実証的な証拠を縷々持ちながら、実際にラノベの代表作として知られる諸作品においては、純文学・SF・ミステリ・映画、などという「一般人」的文芸の影響が計り知れぬほど大きく、ライトノベルにとってさえも「文学」なるものの伝統はやはり脈々と生きて流通しているという事実をもって止揚されうる、ということである。

しかし、今回この小説を読んで苛立ったのは、固有名詞の用い方のさもしさに対してだ。このさもしさについては、この日の記事で述べた。繰り返せば、諸文化のヒエラルキー構造(……そんなものがあるとして、だが)において自分より上位に位置する階層の象徴を持ち出して、そのイメージを簒奪することは、倫理的にさもしいということなのだ。エラリー・クイーンがどうした。テッド・チャンが何だというのか。ライナスの毛布とやらは大塚英志の本でも読んでも仕入れた単語か。自分が書いているのはラノベじゃないのか。SF、ミステリ、まさか純文学だなどと言わないだろうな。ラノベもちゃんと書ききらないうちから固有名詞だけ持ち出してイメージの詐取に精を出すな。しかも、SFやらミステリやら純文学やらをさもしく引っ張ってくるということは、ラノベを書いて賞金だの原稿料だのをもらっておきながらラノベに誇りも自負も抱かないまま、くだらないヒエラルキーを内面化して権威主義の奴隷になっているのと同じだということに、なぜ気づかないのか。気づかないくらいバカなのか。確かに『ハルヒ』シリーズの作者も『ブギーポップ』シリーズの作者も固有名詞は頻繁に出す。けれど、ちゃんとそれを作中に受肉化している。ラノベと調和させている。知ってる単語を書き付けただけでニヤニヤ満足するバカとは全然違う。こうしたバカが理想とするのはおそらく、ラノベ作家だった過去を隠して文豪面をするような、あるいはラノベ作家「だった(いまは違う)」などと言って作家センセイ面するような、ラノベ・コンプレックスにまみれた「越境」作家様たちだろう。ラノベは売春じゃないんだぜ。こんなにくだらないことはない。ラノベの未来のために、頼むからいなくなってくれ。革命力0。