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hkmaroのブログ

読書の感想など

四月十六日

四月十六日。昼飯はてんやのねぎマヨ鳥天丼を食った。夕飯はすた丼屋のミニカレーすた丼を食った。帰って米を炊いたりスパゲティを茹でたりする気力がなかった。

電車で本を読んでいると、急に空想のアイデアが降ってきた。そういうときはもう本の続きを読めなくなる。その空想とは、「文化的な生活」の基準についてだった。ユートピアニズムの目的とは、ユートピアにおける万民の幸福な生活だと思うのだが、幸福な生活とはなんだろうか。ごく単純に考えて、生活水準には三つの段階があると私は素朴に思う。つまり、低い水準の生活と、普通の水準の生活と、高い水準の生活である。低い水準の生活は、貧しい生活と言い換えても良いし、普通の水準の生活は、「文化的な生活」と言い換えてもいいし、高い水準の生活は富裕な生活と言い換えても良い。現代までの人類の歴史において、人類みなが富裕な生活を実現したためしはないし、それどころか「文化的な生活」ですら、万民が浴することを可能とした時代・社会は存在しないだろう。常にどこかでだれかが貧しい生活を強いられていた。であるならば、ユートピアの第一の段階は、そこにおける人類皆が最低でも貧しい暮らしを抜け出せるようにすることでなければならない。それどころか、誰かの富裕な生活をみとめてしまうと、平均よりも豊かな生活は富の蓄積を生み、富の格差が持てる者と持たざる者の権力の非対称を生み出す恐れもあるから、むしろ万民が普通の生活水準に落ち着くのが理想だとは言えないか。というか、本当に万民が最高に富裕な暮らしを実現したら、相対的にそれ以上に富裕な人がいなくなるわけなので、最も理想的なユートピアにおいては、間違いなく万民が「普通」の水準で生活しているに違いない。

ともかく、ここでは富裕な生活をしている人の割合を最大化することをユートピアの目的とはとらえず、むしろ貧しい生活をしている人の割合をゼロにすることをユートピアの目的として考えてみる。すると、最低でも万民が普通の水準の生活をしていることが、ユートピアの第一段階となる。普通の水準の生活とは、「文化的な生活」である。「文化的な生活」と言えど、いったいどういう暮らしが「文化的」なのかという内容は、各々の文化によって異なるだろう。日本において文化的な生活がアメリカにおいて文化的だとは言えないし、アメリカのそれがヨーロッパのそれだとも言えないし、ヨーロッパのそれがアフリカのそれだとも言えない。つまり、経済の思想がモデル化するユートピア状態は、文化に依存すると言わなければならないのではないか。この言い方は言葉遊びめいて見えるが、しかし実際の人間の生活を見てみれば、一方の人が文化的だと思っている生活が、他方の目からはまるで非人間的な生活態度のように見えることはある。団地での生活を指して、画一的で気味が悪いという人もいる。旧住民の古い家々を見て、野蛮な暮らしだという人もいる。文化的な生活、とは、いったい何を文化的だと思っているのか、という枠組みに依存する理念である。

逆に、全く文化的でない生活というものを空想してみる。栄養は食べ物でなくゼリー状のサプリで過不足なく完璧に摂取し、筋肉に電気的な刺激を与えて肉体の衰えをでき得る限り遅らせ、脳みそにはクスリを投与して常にハッピーでキラキラな精神状態をキープする。あらゆる類の快楽を与えられたまま、考えられる限りの長生きができるようにする。そういう箱庭みたいな実験室の中での動物的な生は、それですら「そういう文化だ」と言うことが可能だ。厳密に文化的でない生活などは存在しない。ただ、そういう生き方が一般に「文化的」だと思われていないということだ。

ところで、富は一種類ではない。富は本来お金に換算できるものではない。お金は食べられない。お金は着られない。着られる富と食べられる富は本質的に異なるものであって、錬金術で変えられるものではない。人間には、食べられる富と着られる富が同時に必要であって、着られる富さえ持っていればそれを着ることも食べることもできる、ということにはならない。そうした、同時に必要な富が全種類そろっている状態が、おそらく「文化的な生活」というものの内実であろう。富の種類が欠けていくと、「文化的な生活」からどんどん遠ざかっていく。しかし、必要以上の富の種類を揃えているからといって「文化的な生活」から遠ざかるとは思えない。ますます「文化的」だと考えるのが自然である。おそらく、「文化的」であるための富には二種類があるのだ。大学の科目で言えば、「必修科目」のような、必ず持っていなくてはならぬ富と、「選択科目」のような、数多ある富の中から自由に選んだいくつかを持っていさえいれば良い富とがあるはずだ。当然、「必修科目」の中身も「選択科目」の中身も文化概念に依存的である。大学においてそれらの中身が学部によって全く異なるのと同じだ。

そう考えると、お金を持たぬ貧乏な人のいない、みんながそれなりにお金を持っている、お金のめぐりが良い社会、という経済学の理想の社会は、実は「文化的な生活」という視座が抜け落ちているのではないか、という疑問につきあたる。文化的な生活の条件は、お金の量ではない。それは富の種類をどのように満たしているか、という尺度で判定されねばならない。

たとえ話として、ある文化では、3種類の富X、Y、Zが存在したとする。その文化を共有する社会には、A、B、Cの三人のみがいたとしよう。AはXという富を生産し、BはYという富を生産し、CはZという富を生産する。この共同体では、人間が文化的な生活をするためにはXを最低限持っていればよく、望むらくはYかZを持っているとより文化的である。この共同体が自己完結している限りにおいて、また、生産が上手くいっている限りにおいて、AもBもCも、共同体の成員という資格でもって、すべての富を得ることができる。つまり、成員すべてが富裕な生活をすることができる。こういう社会がユートピアなのではないか。こういう社会では確かに貨幣はいらない。共同体の「蔵」に生産物を溜めておき、成員が自由に必要なときに無償でとっていくことができる。このような共同体のありかたは、ユートピア物語が描くところのものである。ただし、分業が成り立つような生産性の高さと、共同体の閉鎖性を必要とすると思われる。共同体同士で余剰生産物の交換をすると、個々の共同体同士の文化の違いから、富の生産の「得意分野」が存在するので、自然に他の共同体を圧倒する形で、例えば食品を莫大に流通させる共同体というようなものが現れうる。そうすると他の共同体の自立性はそこなわれる。食品を得意とする共同体はある種の権力を手にし、そうでない共同体との間に権力の非対称を生み出しうる。

現代の人間の文化は拡大しすぎたのではないかと思う。「文化的な生活」の条件を、国家という広すぎる領域にまで達成させることはできないのではないか。九州の人間と東北の人間は同じ日本という文化圏内にいて、同じ「文化的な生活」の条件を共有できる、ということに一応なってはいるが、それは相当な無理のもとに成り立っているのではないだろうか。日本という広大な共同体は、あまりに多様な富を生み、どの富を備えれば「文化的な生活」ができるのか、という枠組みを喪失したのではないか。しかも、いまや国家間も大量に富を交換し合う時代であって、こんな時代に「文化的な生活」が可能であるためには、全世界的に「文化」なるものがいったい何なのか、それを可能にする富とはいったい何なのか、という問題についてある程度のコンセンサスが得られていなくてはならないし、生産性という条件に加えて交換の融通無碍性という条件も重要性を増してくる。

以上、もうろうとした頭で書いているので翌日にでも読み返したら全く支離滅裂だろうと思うが、もっと頭が冴えているときにまとめ直してみたい。