hkmaroのブログ

読書の感想など

四月十五日

今日は昼過ぎに川越に行った。郵便局に用事があったからだ。本川越駅前では古本市をやっていた。古本市に出くわすと、最近は困ったような気持ちになる。なぜなら古本市で時間と金を使ってしまうからだ。棚を眺めつつも必死に欲望を抑えつつ古本市を通り抜け、小江戸の風景を眺めながら、入り組んだ住宅街へ入って行き、郵便局に着いた。郵便局は土地の文化を模倣した意匠で建てられることがある。

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用事を済ませた後、川越の商店街をぶらぶらした。川越は埼玉県内の主要都市の中でも特にストリート系だと思う。大宮や浦和は再開発系。ゆえに文化的なのは川越のほうだ。なぜストリート系であり文化的なのかというと、文化が残っている(ように見せようとしている)からだ。トートロジカルに聞こえるかもしれないが、今日文化的であるということは、文化的であろうと自覚すること以外にはありえない。そういう再帰性の下にある意志しか、国家や資本や国民の分断化という事態には対抗し得ない。国民の分断化は、すでにボナパルトの時代に分割地農民という形で表れていた。マルクスの『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』においてすでに相互交流がなく階級を形成できない階級として分割地農民は考えられていて、そういう相互に孤立した民がボナパルトを支持したのだった。相互に孤立することの問題は、われわれの社会にとっても極めて重大であることは言うまでもない。「無縁社会」なる考え方には何をいまさらという感じがする。われわれ大衆は、孤立しているからこそ<画像>の世界に浸ることができる。<画像>の世界とはメディアの世界である。ボナパルトもメディアを自覚的に有効に活用してのし上がった。小泉も石原も橋下もそうである。というよりも、われわれ日本人は<画像>なしの政治というものをイメージできなくなってしまっていると言ったほうが正確だ。メディアの世界は象徴の世界であり、象徴とは超越的で外部的なものである。メディアは外部にしかない。私が常日頃考えているクリエイターと非クリエイターのロマン主義的身分制も、大きく言ってこの枠組みに還元することができる。

埼玉県という土地の性質について考える。埼玉県は周知の通り萌え興しを積極的に採用する自治体であるが、そもそも埼玉県は萌え興しをするまでもなくアニメ的な<画像>の世界と親和性が極めて高い。例えば、埼玉県民は社長を排出しない傾向にあるらしい(参考リンク)が、この理由のひとつには、埼玉がベッドタウンとして発展してきたという事情が明らかにあるだろう。ベッドタウンに移り住むのは都市で働く被雇用者の人々である。東京で働く必要性から、たまたま不動産の事情やら交通の便やらの複合的理由により、埼玉県に住むだけにすぎない(この、郊外生活の偶然性については若林幹夫の『郊外の社会学』に詳しい)。そういう場所には土地の歴史と結びついたコミュニティが発生しない。世代によって住む人々もどんどん入れ替わるだろうから、仮にコミュニティが発生したとしても継続しない。結局コミュニティの強度は保たれない。コミュニティのつながりが薄ければ、それは人々の孤立度が高いということを意味するだろう。孤立度が高ければ、そこでこそ<画像>が強力に作用する。『僕の妹は漢字が読める』で描かれた、首相が二次元の萌えキャラになる、という未来は全然笑えない冗談だ。

言ってしまえば埼玉県は、文化的な意味で、日本においては国内的な「植民地」なのである。日本国内におけるアメリカなのである。埼玉県の不思議な居心地のよさ、相互の無関心は、これに由来しているようにも思える。だが同時にそれは空虚さや虚無感の源でもあるし、なにより政治的な土人化を促す。

もちろんこれは埼玉だけの問題ではない。近代国家の制度がもともと中間団体を破壊して暴力を独占することにより成り立っているという事情を考えるならば、日本は全国的に同様の問題を抱えていると考えるのが自然だ。だが、埼玉県においてはそれが先鋭化した形でいま現れていると思う。その埼玉県においてなぜ川越はこうもストリート系なのか。

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携帯のカメラだし、私の絶望的な写真の腕前で撮られたものなのでわかりにくいかもしれないが、この写真の左奥に小さく鳥居が見えると思う。この場所は商店街のメインストリートから少し路地に入っていった場所で、いわば裏川越とでも言うべき一帯で、このあたりには服屋だとかカフェだとかが民家に紛れていくつも存在している。川越にはこういう文化的で宗教的なオブジェクトが、個人経営の店と同居するかたちで多数ある。面白かったのはJR川越駅の近くで見かけたお稲荷さんで、真新しい鳥居に地域の中小企業と思しき会社の企業名が書き連ねてあった。写真を撮っておけばよかったと思う。こういうものが現代的な文化の再帰性を表現している。日本国内のアメリカ的「植民地」である埼玉県内で文化っぽいものを作ったとしても、それは日本伝統文化のコロニアル様式とでも言うべきものでしかない。だがそうしたものが色んな意味でいま必要だし、そうしたものとしてしか日本に文化は存在し得ないと思う。

それからソフマップで『魔法使いの夜』買って、紀伊国屋で文庫本を買った。帰って本を読んでいたら眠くなって寝た。