hkmaroのブログ

読書の感想など

四月十四日

四月十四日。出勤途上で習慣読書人の宮台真司大塚英志の対談を読んだ。吉本隆明の追悼対談だけど、まあ『愚民社会』の延長という感じ。しかし、宮台は対談の空気に抗して最後にちゃんと吉本の「反核(反原発)異論」を退けていて、その点は好感が持てた。追悼企画というと死んだ人を賛美するものになりがちだと思う。人が死んだそばからその人の批判をするというのは、人倫の感覚からすれば人でなしということになろうが、それをする人こそが知識人だと思う。宮台はいろいろなところで、その場その場であれを賛美しこれを賛美しとやっている印象があって、しかも社会学者なのに哲学上のテーマを(かなり限られた範囲で)持ち出したりしていて、まったく信用が置けない「チンピラ」という感じなのだが、「反核」「反原発」に対する天邪鬼的反骨は、空気に逆らってはいるが、単にそれだけで社会のことを考えた態度ではないということをちゃんと示した点に限っては褒めるべきだと思った。

大澤信亮の群像に載ってた「出日本記」読んだ。まあ、感動だよね。なんだろう。なんでこういうのを書く人が大澤と杉田以外にいないんだろうか、と不思議に思った。もちろん、こういう厳しい自己批判を含んだ言説を肯定していくとなると、こんなクソみたいなブログで鬱憤を晴らすしか能のない毎日を送っている自分に対しても無限にブーメランが返ってくることを帰結せずにはいないのだが、それでも土人の言葉をありがたがって拝聴している精神の土人段階よりもはるかにマシだ。

土人。土人って何だろうと最近思う。この土人という言葉は、宮台と大塚英志の対談で大塚が頻繁に使う言葉なのであるが、それは元は浅田彰の発言に由来している。上流階級の人が、下層階級の迷信に囚われた人々を指して土人と言ってたのが、大塚の考えでは、週間読書人の対談を読む限り、大衆としての自負や自意識すらも失った人間たちが土人である。大塚の大衆のイメージはよりプロレタリアートに近いと思う。しかし政治的な無関心だとか、ボナパルティズムの無自覚的肯定だとか、快楽原則にだけ従って「様々なる意匠」を消費するだけの人間が土人なのだろうか。少し違うような気がする。なぜなら、私の職場だとか友人だとか家族などの周囲の人間たちもやはり土人であり、その土人たちによって作られた「第二の自然」としての社会に生きていく限りは、私自らも(私が実際には土人ではなかったと仮定して)土人として振舞わなければならないからだ。これは宮台が対談で言っていた「関係の絶対性」と同じものを指すのかどうかはわからないし、私には旧来型の、オルグで連帯することによる革命とか啓蒙による革命とか、あるいはその段階を経て束ねられた革命組織による暴力革命だとか、そこまでいかなくても近代的な手続きを踏んだデモ・署名・投票による革命への志向は、これは全く無いと言っても良いくらい無いので、私にとって土人社会に生きる上での苦しみとは、思索と生活が分離することである。私はいま明らかに二重生活を送っている。このブログで書いていることは、とてもじゃないが会社では言えない。そういう意味では一人で左翼集会を開いていると言っても良い。集会では威勢のいいことをのたまっておきながら、昼間外にいるときは土人に合わせて振舞うしかない。そうしたときに、これも宮台の発言だが、革命を実現するために二つの方向性があって、それは、一方でルカーチがオルグの必要性を説き、他方グラムシが大衆文化(テレビとか映画とかマンガがこれにふくまれるだろう)による革命的主体の形成を説いた、というものである。宮台が後者を取るというのにも賛同するし、現代最も効率的な啓蒙の手段だとは思うし、実際私が大して面白くも無いラノベを毎週読んでレビューを書いたりしているのも似たような意図が含まれているのだが、しかしテレビ業界・映画業界・アニメ業界・マンガ業界などもすでにして土人業界なわけであり、しかも業界の土人化は年々進んでいるわけで、業界内部の階級分化(テレビ局の正社員は東大卒で、実際現場で映像を作っているのは高卒のバイト・契約社員・下請け、というような構造)は明らかな上、主にカネを回しているメディア正社員層は大資本および国家とガッチリ握手しているのであり、そのような土人社会に組み込まれつつもスパイ的に暗躍して土人を啓蒙する革命的娯楽作品を流通させるなどという展望は、ほとんど絵空事と言っていい。宮台が『まどマギ』程度のアニメを賞賛しているのも苦しいし、しかも『まどマギ』も革命的に受容されたようには全然見えない。オタクは単にマミの死とエロをネタ的に面白がっただけだ。革命的な力を持つのはやはりアニメで言えば『ガンダム』『エヴァ』レベルの作品でしかないし、特に作品に込められた啓蒙・革命への意志というグラムシ的な回路は、厳密に『ガンダム』しか成就することはできていない。その『ガンダム』の監督ですら、「ガンダム世代」が社会の中核を担うようになった現代を憂えている。『ガンダム』ですら革命的主体の形成には、蓋を開ければ失敗していたのである。あるいは少なくとも『ガンダム』の監督はそう思っているように見える。

「出日本記」には、批評の文章であるにもかかわらず友人たちと温泉に行って会話する描写があったりする。そこで話されている内容は、大澤の批評にとって重要だったからこそ、本文中に再現されているのだろうが、そこで話されていることも革命的だし、そもそも以下のようなことが書いてある。

 ところで森崎和江氏の『湯かげんいかが』にこんな記述がある。〈日清日露戦争後の急速な産業の変化にともなって、それまで湯治客しかいなかった温泉地が、さながら宿場町のようになっていたのだ。(中略)宮本常一氏によれば湯治場や歓楽地だったこの温泉が一般化したのは、第二次大戦後に労働組合法が制定されて以来だという。敗戦後、各地で活発な組織化をみた職場の組合は、大会をしたり集団討議をする泊りこみの集会の場を探した〉

つまり、労働組合レベルではあるが、左翼的団体の集会場として温泉地は発展していったのであり、現在温泉地が全体的な経営危機にあるのだとしたら、労働組合の力が弱まっているか空洞化しているかの理由もそこに含めることができるのだろう。驚いたのは、温泉による革命、という、『デキる神になりますん』を読んだときにちらっと空想した道筋が、そうそう空想的な話でもなかったということである。考えてみれば温泉地は日常生活の外側にあるのであり、温泉に行くということは土人にまみれた日常とは隔絶された環境に自らを置くことにもなるから、精神的活動を行うには向いているのだろう。おそらくブロガーが温泉地で記事を書いたら良い記事が書けるだろうし、資料さえ持ち込めれば論文執筆もはかどるであろう。だが、私が欲しいのは温泉的環境というよりも、一緒に温泉に行ってソクラテス的な対話ができる相手であり、そういう対話相手が自分には全く一人も存在しないというのはなぜなのだろうかと深刻に悩んだ。大澤信亮の温泉仲間との描写を読んでいるととてもうらやましい気持ちになるし、この気持ちはロスジェネ最終号の対談を読んだときも思ったことだ。そこには文学部の学生なんてのはほぼ毎週、週に2、3回の割合で朝までファミレスでああでもないこうでもないと話すものなんだ、とかいうことが確か書いてあって、それは私が大学に入る前に夢想していた大学生生活そのものだ。そういう人は大学にいないんだということがわかって、また大学の授業がクソつまらなかったこともあって、それからは過剰に怠惰になったが、ファミレスで朝まで思弁的対話ができる友人さえあったならば、私の大学生活はもっと知的に豊かになっていたかもしれない。実際にはそういう友人を私が持たなかった理由は明らかで、それは、子供のころに根付いた、本音を人に伝えることを抑制しすぎる性格のせいである。本音を言わないと、親友、というよりも親密な人間関係など築けないということが、この年になってようやくわかったので、この性格で多年を過ごしてきた私には親友がいないのである。それどころか家族的家族がいないのである。いるのは血のつながりのある家族っぽい人たちだけである。私は家族が癌にかかっても見舞いにすら行かなかった。それを詰られてようやく一二回行ったが、それでもなぜ家族が入院したら見舞いに行かなければいけないのかがまるでわからなかった。だがそれは、そもそも本音で家族と向き合わなかった私が、相手のことを家族だと思っていなかっただけなのである。

あとは、仕事が終わった後に、月に一回くらいで映画を複数人で見に行く会を開いているので、それに出かけた。『ドライヴ』を観た。『タクシードライバー』あるいは『ロッキー』みたいな、青年のアイロニーというかユーモアというか、主人公の滑稽さとロマンティシズムの同居を描く映画なのかと途中まで思っていたが、どっちかというとロマンのほうにかなり針がふれている映画だった。しかし、そのロマンもショボイ構造の内部での話でしかない、というのがこの物語の最も価値ある点だろう。舞台の外部が象徴的なものにすぎず、実際には内部で事件が完結してしまうところに現代的批評的意義を感じる。個々のシークエンスの言葉に頼り過ぎない身体的表現も良いと思う。なぜなら映画固有の手法だからだ。私はほとんど映画をみたことがないが、みたことのある良作映画すべてに共通しているのは、これは断言してもいいが身体的表現を重視している点である。この「身体的表現」は視覚的表現全体と同じものを指しているわけではない。役者の身体がどう動くか、ということについて意識的な映画だけが、観て面白い、あるいは深いと感じる。まあ、映画という媒体の性質上こんなことはあたりまえなのかもしれないが、これに無自覚なクソ映画も世の中にはたくさんあるわけであり、今後も私の映画評価の大きな基準のひとつとなりそうだ。