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hkmaroのブログ

読書の感想など

四月十三日

仕事が終わった後、とある同人誌のミーティングのために高田馬場で待ち合わせした。芳林堂に行った。四時間くらい時間をつぶさねばならないため、本屋を無駄にブラブラした。みるべきものもないので、喫茶店にでも入ろうかと思い、芳林堂のビルにないかと入り口のカンバンを探したら、地下にあるらしく、行ってみた。ほんとになんか場末の喫茶店と言う感じだった。店員がみんなすごい無愛想で、私に対する憎しみをすら感じた。若者客は私がいる間一人も来ず、オッサンオバサン客ばかりだった。当然のように全席喫煙可である(もしかしたら分煙にしていたのかもしれないが、そうだとしても仕切りが全く無い空間なので無意味である)。一人で入ってきた女性客が、来てタバコ一本吸ってすぐ出て行ってしまったのだが、おそらくこの場末感が耐え難かったのだろう。喫茶店やカフェの居住性なるものがいかに大切であるかがよくわかる店だった。確かにどうせ行くならスタバだのルノワールだのに行ったほうが落ち着く。ただ椅子に座って長時間暇をつぶすだけならば、ファミレスに行ってドリンクバーで居座るのが一番効率的なのだが、ファミレスは他の客がうるさく、店員も慌ただしく、気分的にあまり落ち着かない。しかしながらオッサンオバサン客はそれなりにぽつぽつと入っていたようだったから、オッサンオバサンにとってはそれほど居心地が悪い店でもないのであろう。居心地とは精神的なものではあるのだが、身体的な感覚がもたらす居心地の基準と、純精神的な感覚がもたらす居心地の基準とがあると思う。身体的な要素は例えば椅子の固さであり、机の高さであり、珈琲の味であり、タバコの臭いであって、一方純精神的な要素は例えば店員の表情であり、内装のモードであり、雰囲気であって、これらの統覚が居心地なるものを形成する。

そういうわけで、この店は居心地がかなり悪いので待ち人からの連絡が来る前に出た。そしてまた芳林堂に戻った。気まぐれで文芸誌のコーナーを見ていると、大澤信亮が群像に書いてて、それが非常に良さそうな感じなので買った。しかし名前こそ出していないものの明らかに文芸誌でチヤホヤされてるゴミどもをののしっている下りがあるのだが大丈夫なのだろうか。そこには当然群像自体が含まれるはずである。まあ、ゴミどもはバカだから大澤の文章を読んで自分が批判されているとは考えもしないのだろう。最近の論客で大澤信亮ほど批評のブーメラン性に敏感な人は少ないように思う。『神的批評』は扱ってる題材が私の関心からかなり遠いので(宮沢賢治とか北大路魯山人とか)なかなか読む気にならないのだが、一度は読まねばならんと思っている。低俗な言い方をすれば、間違いなく今一番アツい批評家だ。

大澤と仲のよい杉田俊介は、『フリーターにとって「自由」とは何か』を読んだことがあるが、色々いいことを書いてるのに文体が鬱屈しているような感じがする。なんというか、実存がむき出しになっている感じがする。そういう意図をはじめから持っているのかもしれないし、そうだとすればそのことには批評的な意味があるとも思うが、これは「あえてオナニーをする」ということであり、言説の拡大という目的を妨げる要因ともなるような気がする。ロスジェネの最終号に大澤と杉田の長い対談が載っているのだが、必然的にオナニーをある程度解除せねばならない対談という形式になると、杉田の話がすんなり頭に入ってくる。実は私はこの二人で言ったら杉田俊介のほうが好きなので、彼らには是非対談を沢山してもらいたいと思う。

あとは柳田國男の本を二冊買った(書名は読み終えるまで書かない)。オカルトだと思っていたフロイトを読んでみると、そこで重要なのは論理というよりもむしろマインドなのだということがわかったので、おそらく柳田の本にも何らかのマインドが充溢しているのだろう。フロイトも柳田も吉本隆明がよく言及していた思想家だ。フロイトが日本の思想家にとって重要だったのは、フロイトが、神経症患者と健常者に本質的な違いはない、と言い切った点にあって、そもそも人間は誰だろうと神経症なのであり、神経症の程度が違うだけなのだ、と言った所に倫理的な感覚があったからだ。吉本隆明も、例えば酒鬼薔薇みたいな「異常」な殺人者を精神病棟に隔離して安心する考え方を批判していて、酒鬼薔薇が「異常」なら、それを言う我々自身も「異常」だとせねばならない、という視座に立っていたように思う。これが岸田秀の言い方だと、「人間は本能が壊れた動物である」という全称命題になるだろう。海外でのフロイト受容がどうなのかは知らないが、少なくとも日本においてはマインドが重要だった。だから、フロイトが科学としてダメだから読む価値がない、と批判するのは的外れで、そもそもフロイトを読む人は科学的な正しさなどをもとめているわけではないのである。もちろんフロイトひいては精神分析を真理性を持つ科学として称揚するアホな言説は批判されてもしかたがないと思う。フロイト自身が科学者を気取っていたという問題もある。しかし、精神分析は科学ではないし、科学ではない所にこそ学ぶべき点が存在する。

その後人と会い同人誌の話をするにはしたが、またもホッピーのせいで記憶が飛んだ。疲れていて酒に弱くなっている上に、時空を捩じ曲げる神の酒であるホッピーを飲んだから、話の内容がぼんやりとしか頭に残っていない。しかし、哲学科を出たMに哲学談義をふっかけることができて楽しかったのは覚えている。我ながら相当ウザイ奴だと振り返って思う。