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hkmaroのブログ

読書の感想など

複数の記事を継続的に読むことに意味があるブログと、各々の記事に個別の価値があるブログ

最近思うのは、読む価値のあるブログには二種類あるのではないかということで、一つは毎日の更新を追いかけて行くことに意味があるようなブログで、もう一つは一個の記事がそれ自体である程度完結しているようなブログである。もちろん、いかなるブログであろうと書かれた記事を全て読まなければ、個々の記事は読んだと言えても、そのブログを読んだとは言えないから、この世のどんなブログも毎日の更新を追いかけるどころか過去の記事まで全て読まなければ本当は意味がないのだが、現実にはなかなか煩雑だし時間がかかるしで難しいことも事実だ。

ここでいうブログとは当然ながら「英語の偏差値32だった俺がTOEICで890点とれるまでにやった7つのこと」などというクソ・ゴミ・スパム記事は一切含まないし、ニュース記事のリンクを見苦しくべたべた貼ってメタインターネットを気取っているブタどもや、自分とは無関係な「遠くはなれ」た時事問題について怒ったり悲しんだりしているかのように振る舞う人間のクズどもや、多数派の意見を神様気分で勝手に承認したり禁止したりしているだけの滑稽な記事を書いて得意顔をしている糞垂れ流し「ブロガー」の記事も一切含まない。それらは人間の精神活動に含めてはならないものだ。心情的には、彼らを人間の範疇に含めるべきではないと私は思っている。

私はこれまでの人生で今ほど他人のブログを読んだことはなかっただろうと思う。なぜ今ブログなのかというと、ブログ全盛期のころにウンコみたいなブログを書いてたウンコどもが、昨今はSNSへと排便の主な舞台を変えたからで、このことが、クソがブログという場にわだかまる割合を結果的に減らしたのではなかろうかと推測している。また、書く習慣を持つ人がアップロードの場をテキストサイトではなくブログに移行させたからではないかとも漠然と推測している。もはやhtmlタグを打ってテキストサイトを新しく拵える人など珍しかろう。だが、不思議なことに、テキストサイト時代のほうがテキストの重みはあったような気はする。面白いテキストサイトを見つけたら何時間でもそのサイトに没頭する、ということがあったような気がする。ブログにおいてそういうことは少ないように思う。なぜそうだったのかはわからない。インターネット文化の黎明期であったから、出版文化の様々な磁力が働かないジャンクかつフリーダムなネット上のテキストの、書籍には決して存在しない強烈な躍動感を、より一層強烈に感じることのできる条件下に読者達はあったのだ、というだけなのかもしれないし、時代を経て出版文化とネット文化が相互に影響を与え始めて、昔ほどネット上のテキストに独自性・特異性を感じられなくなったというだけなのかもしれない。

だがそういう時代においてこそ、似たような文章が本にもなればネット上にも踊っている時代であればこそ、紙で読むということとデータで読むということの違いが際立つ。私自身の内観によれば、同じ文章を紙で読む場合、読み飛ばしを自分自身に禁止する強い抑止力が働いている。一方、電子書籍であれネット上の文章であれデータになった文章に対するときは、読み飛ばしへの抵抗感がまるでない。特にブログはそうだ。

ブログは読者に読むことを強いない。それが何故なのかはわからない。ぼんやりと推測するには、ネット上の文章のほうが出版されている文章に比べて圧倒的にゴミの割合が多いので、まず一目でゴミとわかる文章をふるい落とし、多少は読む価値がありそうだと思われる文章の前後ではマウスのホイールを動かすスピードを緩め、さらにその中から厳選して2〜3行をようやく読む、というような行動様式が自然と刷り込まれてしまったのだろうと思う。

だがこの態度はゴミを読むときの態度である。精神的な価値があるブログを読む際には、こうした読み方では、全く、一切、何も、読みとれはしないだろう。

電子書籍が紙の書籍の部数を追い抜く世の中が到来するためには、それゆえに、紙の書籍がネット上の文章と同程度にまで信頼を失い、「書物とはそもそもゴミなのであり、百冊読んだらその内一冊の中の2〜3行の良い言葉を読めれば儲け物なのだ」という程度のかなり真理に近い期待のもとでしか読まれないようになるか、それとも「ネット上の文章も電子書籍もハードカバーの書物も同じように深い価値が秘められている」という風に書かれたもの一般が厚い期待のもとで読まれるようになるか、どっちかの方向へと国民の基本的な意識が変化しなければならないだろうと思う。

毎日の更新を追いかけて行くことに意味があるブログのことを継続型、個々の記事がそれ自体の完結性をもつブログを個別型と仮に呼んでおくことにすると、継続型のブログの特徴は日記調であるところに、個別型の特徴は特定の主張が暗示的にせよ明示的にせよ存在しているところにあると思う。そしてさらに興味深いのは、私が読んでいる数少ない、しかし更新の頻度は極めて高い優良で精神的なブログは、そのいずれもが継続型の記事と個別型の記事の二側面を持っているということである。より正確に言い換えれば、継続型の記事の流れと、個別型の記事の流れの両方を持つブログが、私の信頼するブログには多い。

ここでひとつ仮説を立ててみたい。それは、精神的に優れたブログ――つまり、ブログ界を書店に例えるなら、有象無象のビジネス本やら雑誌やら裏技本やら勉強本やらの、五年も経てば間違いなく価値がゼロ(もとい105円)になるに違いない資源ゴミとは一線を画す、岩波文庫平凡社ライブラリーかに例えられるべきもの――は、その完全性を実現するために、継続型の記事と個別型の記事の二段構えを構成しなくてはならない、という命題だ。たとえばゴミみたいな「ライフハック」ブログなどは、ほとんどそのすべての記事を個別型で構成しているであろうし、逆に「女子大生日記」系のブログは、そのほとんどすべてを継続型で構成しているであろう。しかし後者は継続型と言えどほとんど虚構の世界を書いてアクセス数を稼いでいるゴミみたいなブログなので、読む価値はない。

継続的記事と個別的記事の両方が必要なのだとして、ではそれはなぜなのだろうか。おそらくこの二重性がそれ自体で重要であるはずだ。とりあえず私も私が読んでいる優良ブログの真似をして、今後は日記調の記事と小論調の記事とを意識的に峻別して更新していきたいと思う。それが謎を解明するひとつの手がかりにもなるだろうし、自分自身のブログの精神的価値を高めることにもなるだろう。機会があれば、私がどういうブログを読んでいるかここに書くこともしてみたいと思うのだが、そのためにはそれらのブログのすべての記事を読まなくてはならないだろう。その機会は当分先になると思われる。