hkmaroのブログ

読書の感想など

どのようにライトノベルを読むか

一般の文学との対比におけるライトノベルは、ケータイ小説と同じくある種の国内的エキゾチズムの対象となってしまうがゆえに、ライトノベルの知的な探究においては、

(1)ライトノベル市場全体の、数字を用いた研究 

と、

(2)ライトノベルライトノベル外部の関係性の研究、言い換えればライトノベルの社会学 

という二つの手法のみが専ら採用されているように見受けられる。これは管見によればライトノベル愛好者ですらもなかなか免れていないパターンで、ライトノベルの中身を研究せずにライトノベルを取り巻く何かを研究するこの二つの態度は、後者が先行する限りにおいて、ラノベ愛好者ですらラノベをエキゾチックな奇形小説として取り扱っているということを意味する。もちろん、上記二つの手法による研究は非常に重要だし、それによって打破されるイデオロギーも当然山のようにあると思うが、本来それらがクリティカルな意味を持つのは、ライトノベルのイデオロギーが形成された後の話であって、そのようなイデオロギー、平たく言えば<ラノベ界の精神文化>が確立されていない現代において(事実「ライトノベル」という概念の定義も甚だ難しい)、そのイデオロギーを打破した! などと宣言しても無効である。もっとも、クリティカルな意味などはなから求めないのであれば話は別だ。

イデオロギー無しの数字的あるいは社会学的研究がはらむ危険性は、その内なる恣意性を隠したまま「実証研究」を名乗ることができてしまうことである。もちろん、ちゃんとした研究であれば実証研究は実証研究なので、右にも左にも、上にも下にもズレないニュートラルな<ライトノベル>を対象にできるだろうが、内容空疎な「実証」は、たとえば顕著な例で言えば「このラノ2012」の協力者票の類を正当化する。協力者ムラと出版社ムラの「互いの思いやり」という上部構造や、その下で動いた各種のカネがこのような「数字」を表現しているのだろう。

三島由紀夫が考案した文化意志の概念は、個と構造がダイナミックに入れ替わる過程を概念化したものだった。個は文化意志という構造に規定されている。だがその文化意志はもともと個が発したものである。が、その個もやはりその時代の文化意志という名の構造に規定されている……と、このように文化意志は個と構造を無限に入れ子構造的に反復していく。ライトノベルの読解においても、構造のみを分析していく手法は単なる測定でしかなく、その内部にある無数の個物としての読者がどういう動機でライトノベルを読むのかという因果を問題化することができない(その意味で山中智省の『ライトノベルよ、どこへいく』における言説史的研究は、私が読んだことのあるライトノベル研究の中で最も信頼に値するものだ)。

ライトノベルを読むことの社会的意味や位置は「数字」と「社会学」が明らかにするかもしれないが、ライトノベルを読むことが読者の内面に及ぼす影響や、その経験が読者の行動のどの部分の動機となったのかを知ることは、ライトノベル読者としてライトノベルを読むときにのみ可能になる。読者とは個物であり、個物はすでにライトノベル読者共同体の文化意志に規定されている。しかし、だからこそライトノベルの精神的な体験を唯一特権的に語ることができるのである。つまり、ライトノベルの内面を知るためには、むしろ進んで特定の社会的文脈に身を投じなければならないのだ。その文脈はライトノベルの場合、ネット上のラノベ「協力者」論壇や、「作家」文壇や、「研究者」の学会や、「読者」の諸世代別集団や、そのほか無数の諸集団に分断されていて、それらがうっすらと個々の作品を中心に重なりあう部分に、かろうじて読者共同体の顔が見えるのみである。これは、その読者のボリュームの大きさを考えた場合、いささか奇妙なのではないかと思う。

中高生が何をライトノベルに求めているのか、同様に二十歳代、三十歳代の読者が何を求めてライトノベルを大人買いするのか、あるいは四十歳代、五十歳代の読者が何を言うためにライトノベルを利用するのか、これらを知るためには読者共同体の中心的集会所あるいは討議の場が存在するべきだ。なぜならそこにおいて特定の社会的文脈が生まれるからだ。この文脈が、個々の読者を強力な文化意志的構造の下に再構成し、より精度の高いライトノベルの内面的読解を可能にするであろう。一般文芸には文芸誌がある。文芸誌は同時に総合誌であることによってその中心性を獲得していたのだ、とここで仮定するならば、同様にライトノベルが中心的総合誌あるいは機能的等価物を得ることは、ライトノベル保守本流を生み出すにあたって必要なことであり、保守本流は必然的に自身の敵としてのライトノベル自由主義ライトノベルのアヴァンギャルドライトノベルの革新派を生み出すだろう。ここにおいてようやく「数字」と「社会学」は真の意味でクリティカルな実証主義となりうるのである。なぜならそれは、保守本流のイデオロギーを打倒するからだ。

しかしながら、依然としてライトノベルの意味に関しては、実証主義では簡単に明らかにすることはできない。そこで作用する意味の体系は、ライトノベルの場合、自立的進化を遂げたオタク的表現の枠内にあり、その自立性は現実世界を否定しうる。その意味でライトノベル保守本流であることによって逆説的に現実社会においては極めて破壊的でもありうる。典型的には『JSが俺を取り合って大変なことになっています』に見られるロリコン表現がそれである。