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読書の感想など

『デキる神になりますん』森田季節 感想



デキる神になりますん (ファミ通文庫)

デキる神になりますん (ファミ通文庫)

わたし、くらがりさまと申します。長らくこの温泉旅館『ひぐちや』に住みついています。え、部屋からは一歩も出ませんよ? だって外はリアルじゃないですか! ここからだって全世界に繋がれますし何の不便もありませんよ! ところで貴方は何方ですか? 一成【かずなり】さんですか。ふむふむ困った祟りに遭ってますね。しかも『ひぐちや』も経営ピンチですって? 仕方ありません……リアルの大海原に出ましょう! 神愛でる地で始まる神サマ更生コメディ開幕!!

商品として優秀なライトノベルが必ず同時代の社会の特異性を反映している必要はないし、社会を変化させる力を持っている必要もない。商品として優秀なライトノベルは、それが浴する資本主義的な繁栄が必然的に要求する諸条件のもとにおいて、当然他の作品から区別されるべき差異を有していなければならず、その差異こそが作家サイドと読者サイドという二つの「共同体の間」において利益を生むのであるが、他方、そのライトノベル自身が属するライトノベル読者共同体の願望を充足させるために、読者達の期待通りの欲望のエコノミーを体現した内容を持つ必要性をも同時に持つ。この二つの特徴のうち前者はライトノベルの創造性を、後者はライトノベルの美学を代表するが、しかし前者の創造性はあくまで資本主義をドライブさせるために用いられるに過ぎない創造性である。文化的な意味での創造性は、資本主義による抑圧を受けて鋳直されて牙を抜かれて伝播していく。だが、文化的な意識の高いライトノベルは、この抑圧のうちに高度に創造的な思惟を忍び込ませることによって革命力を高める。ゆえに、作家自身の意識と無関係に高い革命力を持つライトノベルは、特別な文脈に位置づけられない限り原則的に存在し得ないし、そうであるが故に革命力の高いライトノベルは、ライトノベルである以上当然にライトに読むことが可能であるにも関わらず、読者との間に高度に思惟的対話の機会をも持ち得る。我々ライトノベル読者に課された革命的な仕事は、この創造性を可能な限り徹底的に炙り出すことであり、それが新たな美学を構成してゆく弁証法的な発展段階を築く作業に、傍観せず参加することなのだ。つまり、ライトノベルを読み、それについて語り、そしてもう一度読むことである。あるいは何度でも読むことである。それによって強化されたライトノベル読者共同体のイデオロギーは、ある段階を超えれば下部構造の転換をももたらし得る。言い換えればライトノベルを徹底して読むことによって革命が可能になるわけであり、この可能性を我々はライトノベルの革命力と呼ぶべきなのである。

ライトノベルの革命力を正しく算定するに当たって重要なのは、当然ながら、作品において何が本来的願望で、何がそれを資本主義的に抑圧しているのか、という二つの側面を正しく読み取ることだ。未だ人文・社会科学に関心を持つ人々(私を含む)にとってブラックボックス的な不明瞭さを持つ資本制による抑圧の結果として出力されるライトノベルから、厳密に正しく願望の要素と抑圧の要素を切り分けることは不可能ではあるものの、それ試みることによって知られることもいくらかはあるだろう。特に本作『デキる神になりますん』のように、比較的明瞭に各々の要素を確認できる小説を読むにあたっては。

ファミ通文庫公式ホームページでオンライン立ち読みも可能な冒頭部分から引用してみよう。

 毎度のことだが、深緑は一成の前だと、キャラが変わる。ほかの人の前だと、よくできた女子高生なのに。舐めてるんだろう。
「あのさあ、僕の前でだるくなるのやめてよ。なんか、馬鹿にされてるっぽい」
「じゃあ、一成に自慢するようなものってある?」
「そう言われると、たしかにないな」
(中略)
「はあ……もう少し僕が偉くならないと、深緑の態度は変わらないのか」
「ううん、私は今のままの一成でいいけど…………」
 深緑の耳が赤い。深緑は緊張したりすると、よく耳が赤くなる。
「だって、今のままだと、深緑、素のだるい顔するだろ」
「違うよ。どっちかというと、私、一成の前だと、素でいられるっていうか、飾らない雰囲気で一成とは接していたいっていうか……」
 急に深緑の話し声がぼそぼそと小さくなる。言いづらくなる要素はないと思うが。
「むしろ、ありのままで一成とはいつまでもいたいっていうか……その、十年とか二十年とか……」
「ああ、そうか。深緑の言いたいこと、だいたいわかったよ」
「えっ!」
「気づくのが遅かったよ。僕って、あまり踏みこまない性格だから」
「だ、だからって、こんなところまで踏みこまれても困るっていうか……」
「接客スマイルばっかりだったら疲れるから、親戚の前ぐらい、素でいたいよね」
「…………」

このようなライトノベル特有の圧縮された会話表現は、その作用として疑似マンガ的な記号的(手塚治虫におけるキャラ表情のパターンのような)コミュニケーションの表現となり得るが、それは形式主義との峻厳な区別が不可能である。しかし、多少とも形式主義と有機的形式を有意味に区別し得るのは、その内奥における内実の有無であり、その形式を用いることによって得られる感性的効果の有無である。少なくともライトノベルの市場において商品価値を高めるために重要なのは符牒を用いることであって、そこに実質的な感動や驚きが伴う必要性は無い。俗に、ライトノベルの売上は、一巻目はイラストが全てであり、二巻目以降は内容次第である、という風にもっともらしく語られているようだが、ライトノベルの熱心な読者こそ二巻目以降の中身の無い引き延ばし的展開や、その宣言も無いままの自然消滅的な打ち切りという中身もクソも無いいかにも資本主義的な仕打ちに苦痛を覚えているのであって、本質的にライトノベルの売上に中身など全く関係が無い。少なくとも革命に関わる中身は、売上とは全然関わりを持たない。では、上記に引用した会話表現に、実質的にもたらされる感性的効果は存在しているだろうか。

主人公の「鈍感」表現における一方の極に、その表現のためにほとんど一巻をまるごと使って表現した『アクセル・ワールド』を置くとするならば、他方の極には、小規模な「鈍感」を繰り返し繰り返し描くことによる過剰性をもって『はがない』を置くことができるだろう。両者に共通するのは、これらの「鈍感」表現が資本主義的な抑圧というよりも、積極的な「鈍感」の美学形成に寄与している点であり、このことは両者ともに「鈍感」の破壊というメタ「鈍感」的局面へと移行せざるを得なかった意識の高さを見ても明らかである。つまり、両作品において「鈍感」は抑圧ではなくて願望なのである。翻って『デキる神』における「鈍感」表現はひとつの資本主義的抑圧として、つまり符牒として機能しているに過ぎない。なぜなら、主人公が「鈍感」である理由についての合理的説明が描かれないし、ヒロインの一人である深緑が主人公に好意を寄せる理由もほとんど描かれないからである。

では、作家がその抑圧の下に隠している願望はどこに描かれているのだろうか。この願望が存在していなければ我々は革命力を持たないとみなすしかないし、共同体形成に寄与するような願望が外観の裏に充満しているのであれば高い革命力を持つと評価すべきである。そしてその願望は、少なからぬケースにおいて、あとがきでこそ吐露される。あたかもフロイトの精神分析が、患者の無意識による言い間違いや癖を問題としたように、時には我々も知的探求のオカルト化を恐れず通常取るに足りないと思われているあとがきにこそ着目すべきなのである。

 今回は温泉地を舞台にした、ほのぼのほんわかコメディです。この作品を読んで、温泉に行きたいと思われる方が一人でも増えれば、うれしく思います。

つまり、作者の願望の対象は温泉にこそあって、ライトノベルには無いという、驚愕すべき事実が明らかになる。ライトノベルによる革命の可能性を探る我々革命的なラノベ読者にとっては、本来この事実だけでもって革命力を0とせねばならないところだ。しかし、

 温泉が好きです。
 とくに温泉旅館に泊まるのが最高です。
 夕方にチェックインして、とりあえず一風呂。夕飯を食べて、また一風呂。寝る前にまた一風呂。朝起きて、早朝に眠気覚ましに一風呂。辺りを散策して一風呂。朝食を食べて、チェックアウト前に最後に一風呂。

という文言で始まる温泉への愛着に満ちた僅か2ページのあとがきに、約270ページの小説本文を超えるパトスを明瞭に確認できるのも確かなことなのである。ライトノベルを読みまくることによる革命が可能であるとするのならば、温泉に入りまくることによる革命もまた可能だとせねばならないのではないか。その可能性を考慮するならば、革命力5というのが妥当な評価だと思われる。しかし、この作家はもはや単なるライトノベルではなく、ラノベ風味の紀行文学、言わば紀行ラノベをでも書いたほうがよっぽど革命的な本が書けるし、その需要もこの社会に潜在しているのではないだろうか。