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読書の感想など

『も女会の不適切な日常1』海冬レイジ 感想



も女会の不適切な日常1 (ファミ通文庫)

も女会の不適切な日常1 (ファミ通文庫)

部活名:「もっと学園生活を豊かにする善男善女の会 部」目的:青春を謳歌すること! メンバー:(1)ちだね先輩。僕の愛しの青春☆ヴァカ。(2)繭【まゆ】。化学実験厨でちだね先輩の寵愛を独占。僕嫉妬。(3)ユーリ。僕の従妹で義妹【いもうと】。暴力女。(4)雛子【ひなこ】。エア参加。ガチ百合。(5)僕、花輪廻【はなわめぐる】。女子扱いされるけどお願いヤメテ。そんなも女会はモテないし無軌道だけど、それなりに平穏だと思ってた。あの少女に出会うまで、僕らの日常が本当は不適切だったなんて、知らなかったから――。

タイトルの「日常」というキーワードはさりげなく付け加えられているように見えるが、しかし読者はこの本を読み終えた後にしかそこにかけられている力を理解することができない。このことは、「日常」は失われたときにこそその大切さを実感できる、などという、ともすれば本作の本文中にすら見いだすことも不可能ではない通俗的な認識と同じではない。我々オタクが「日常モノ」などという言葉で分類している諸作品が、実は我々が実存しているいわゆる日常を表現しているのではないことは明らかだ。我々がマンガやラノベやゲームの外側で現に過ごしているこの日常は、簡潔に言い換えれば<厳粛な生活>とでも言うべきもので、カネ、コネ、学歴偏差値、顔面偏差値、権力、ポジション、その他諸々の下部構造的要素が一つの凄惨な現実を構成している。直視すればだれだってこのことには気付くはずだし、それだからこそ我々は(オタクに限らず)この現実を「日常」を描いた物語の力で読み替えて耐えようとする。ある人は恋愛小説を読み、ある人はギャグ漫画を読み、ある人は萌え4コマを読み、ある人は文豪のエッセイを読み、ある人はブログを読む。それらの諸媒体に描かれた無害化された「日常」と自分自身の凄惨な現場をリンクさせ、自らも「日常」の世界に生きていると信じ込むか、あるいはせめて萌え4コマを読んでいる間くらいは「日常」の世界に浸りたいと考える。

つまり、「日常」とは実は「非日常」的な理想世界に他ならないわけであって、そこには無害化という観念上の操作が加えられている。本作が優れているのはこれを問題化した点にあって、「日常」世界に対置される諸要素は、「日常」的でないからこそ、いかに「日常」なるものがきわどい努力や偶然のもとに成り立っているのか、つまりいかに「ありそうもない」のかを表現できる。だが、これだけであればすでに『生徒会の一存』という優れたライトノベルが問題化しているし、ラノベに限らなければ『ひぐらし』という金字塔的存在が徹底的にやりつくした感すらあるのだが、この点に関して以下述べていくにあたっては

ネタバレ

に踏み込まねばならないので、ご注意されたい。

本作はその設定に「アッパーグラス」という、超越的な世界を盛り込んでいる。アッパーグラスにおいては時間を遡行したり、壁をすり抜けたりすることができるし、それだけでなく他人の意思に囁きかけることによって歴史に介入することすらできる。時間を遡行できることや、それによってそれぞれの場面のやり直しができるという設定や展開から、この作品をループモノだとか擬似エロゲ的ラノベだと捉えることはもちろん可能だし、もしかしたら作者の試みの中心もそこにあるかもしれないのだが、これに関してはラノベでそれを行うことが失敗しかもたらさないことは既に明らかだ。エロゲーがループモノをその実験的で前衛的なジャンルの中心的位置におくのは、エロゲーという仕組みそのものが言わばループモノだからであって、ループモノとはつまり「エロゲーとは一体何か?」という問題をエロゲー自身が考えるエロゲーなのである。ループモノでなくても、いかなるジャンルのエロゲーであろうとも、複数のキャラとの個別エンドが用意される限りにおいて、エロゲーのプレイヤーは常にループしているのであって、それだからこそループする主人公を描くループモノエロゲーは、主人公を媒介にしてメタフィクション的にプレイヤー自身を問題化しうる。つまり、ループモノとエロゲーの間には必然的な緊密な関係が存在している。翻って、ラノベという、本質的に一本道のシナリオしか持たない媒体においてループモノが問題化しうる領域はそう多くない。せいぜい複数のヒロインに同時に八方美人的に振舞うことにまつわるアポリアくらいだろうと思われる(その意味では『ギャルゲヱの世界よ、ようこそ!』の主人公の決断・選択は、エロゲー的というよりも優れてライトノベル的な態度であろう)。ゆえに、ループモノとしてこの小説を読むことは、間違いではないかもしれないが、あまり実りのある行為ではないだろうと私は考える。

むしろ、この小説の描く「日常」にこそ注目すべきだ。そもそもライトノベルが繰り返し繰り返し、これでもかというほど飽きるほど金太郎飴的に量産してきた「日常」とは一体なんなのか。なぜこれほどまでに「日常」が愛好されるのか。最近はあまり見かけないが、ファンタジア文庫ではよく一つのタイトルに対して「長編シリーズ」と「短編シリーズ」の二つのシリーズを設けていた。これは単純に、短編シリーズのほうは雑誌掲載分の話を一冊にまとめて随時刊行していく、というシステムから生まれただけなのかもしれないが、仮にそうだとしても雑誌掲載のための短編については明らかに「日常」的要素が多く含まれていたといって過言ではないだろう。顕著なのは『フルメタ』においてであって、長編シリーズが学園外でのハードな出来事を扱うのに対して、短編シリーズでは多くが学園内のギャグっぽい話を専ら扱っているし、ほとんど短編シリーズにしか登場しない主要キャラすら存在する。昨今の諸タイトルにおける学園の中心化にも関連するかとは思うのだが、「日常」、なかんずく学園における「日常」が重要である理由の一つは、そこにおいて読者が主人公と一体化できる余地を見出すからであることは言うまでもない。この主張はあきれるほど素朴に響くかもしれないが、ライトノベルのヘビーな読者層に二十歳代、三十歳代の男性が含まれることを考えた場合に、その素朴さは消え去るだろう。学園の持つ求心力が、宮台や宇野の言うように、この複雑化して不透明化した社会において学校の記憶くらいしか万人に共通する体験がないからなのだ、という事情に根拠を持つとしても、つぶさに個々の作品内に描かれた学園を見てみれば、そこには現実の学校と必ずしも似ていない要素、しかもそれにも関わらずお約束的に必ず用いられる要素が存在していることに気付くだろう(学園モノの主人公はたいてい必ず親友に恵まれているし、必ずクラスメイトの美女と幸運な交友関係を持つし、大体の場合ヤンキー的な存在に目をつけられるし、ほぼ必ず屋上で昼飯を食うし……等等)。これらの要素は単に学園生活を美化するような、「あったらうれしいもの」には限られない。例えばヤンキーに目をつけられることなどは、現実の学校でそれが起こるのは嬉しいことではないだろう。そもそもヤンキー・不良といった表象が今日の不良学生を忠実に描写していないことも多い。それに、屋上で昼飯を食うなどということは昨今の学校では不可能なのではないか。もし可能だったとしても、物語の学園に描かれているような気楽さはおそらくないだろうと思われる。実はこうした学園的な「日常」は、本作の主人公であるリンネが慨嘆するとおり、

死んでしまった今ならわかる。僕はリア充だったんだ。あんな美少女いっぱいの部活で、毎日へらへら笑ってられたんだから。(109ページ)

ということなのであって、しかも学園におけるリア充性の基準には、現実の生活世界にはない独特の基準が用いられていると言わねばならない。仮にこのリンネの「日常」をリア充だと認定するならば、その他大勢の「日常モノ」ラノベの主人公達も同様にリア充だとせねばならないはずだ。だが『はがない』をはじめとする「残念な日常」系は、このリア充性があたかも存在しないかのごとく振舞ってきた。それどころか、他ならぬ「残念」であることによってこそこのリア充性は隠蔽されてきた。当然本作も「も女会」つまり「残念」な喪女の集まりだというレトリックでもって「日常」のリア充性を隠蔽してはいる。しかし、上記見たように主人公のリンネはこの「日常」のリア充性に気付いてしまう。その上本作が用いる「日常」相対化の戦略は、文字通りの非日常的な超越世界や、美少女の殺人鬼化という非日常的な事件を採用するという、論理的な意味で美しい筋書きによって遂行される。「日常」に対置されるべきオルタナティブ路線を複数仕掛けていくことで、「日常」の諸位相が明らかになってゆく。

本作のループモノ的設定が生きてくるのはこの点においてである。例えば繭というキャラクターは、殺人鬼ではない繭と、殺人鬼である繭という、二つ以上の潜在的な可能性を秘めた存在として描かれるのであるが、このような非「日常」的なキャラクター達によって「日常」は実は構成されているのだということが明らかにされることによって、「日常」の完全性や必然性が解体される。殺人鬼的な繭は「日常」を不可能にさせるような非「日常」的存在であるが、この非「日常」性が「日常」の仮構性を暴露し瓦解させてしまうという意味においては、殺人鬼的な繭は<厳粛な生活>と同じ位相に存在していると言える。また、超越世界において個々のルートの「日常」が達成されるかどうか、その成り行きを見守る主人公とアイは、当然ながらライトノベルの読者自身とかなり近い位相に存在していて、各々のキャラクターの一人称が複雑に入り乱れるいかにもラノベらしい文体は、この「日常」を俯瞰する超「日常」的視点が必然的に要求するものである。そして、同じような仕掛けを用いて非「日常」から「日常」を奪還する、再帰的「日常」を志向する話を描いた『ひぐらし』との根本的な違いは、この小説が相対化しようとする「日常」が極めてライトノベル的な「日常」であるという点にある。この違いは当然ながら具体的な方法においても違いを生み出していて、例えば本作においては『ひぐらし』と同様に各キャラが別のルートの記憶をフラッシュバックさせるのであるが、しかし本作では『ひぐらし』とは違い、キャラ達の別ルートの記憶の自覚は必要ない。再帰的「日常」を得るのは、も女会において主人公ただ一人である。なぜなら、エロゲーと異なりループを根源的性質に持たないライトノベルは、この再帰性とは本質的に無縁だからである。もちろん、続刊においてこの小説のヒロイン達が「あり得た自分」の記憶を得る可能性もあるのだが、そうであったとしてもその展開は『ひぐらし』がその形式から必然的に要求したようには存在し得ないであろう。『も女会』が最終的に取り戻すべきなのは、凄惨な現実を乗り越えたあとの再帰的「日常」ではなく、ライトノベル的に純化された「日常」だからだ。この純粋な理念的な「日常」への志向は、本作が、あらゆる不適切(=非「日常」)を排除した本来の「日常」を目指す、という主題を持つことに起因する。もしも『も女会』の面々が記憶を自覚し始めた場合、そのときにはすでにラノベ的「日常」は不可能となっている。そして、そのようにしてラノベ的「日常」の相対化という目的を見失った場合には、むしろ再帰的「日常」を求めるというトゥルーエンド的な物語へと『も女会』は再組織化され、そのように一つの目的への明確な筋道を獲得した『も女会』は、そのことによってファンタジア文庫的な短編シリーズ的「日常」と、長編シリーズ的非日常のわかりやすい二側面を獲得し、逆説的に「日常」に安住することになってしまうだろう。『も女会』の本領は、このような「日常」が生活世界においてほとんど不可能な特殊ラノベ的幻想であることを示したところにあるのだから、これはむしろ退化である。だが、この徴候は既に本文中、非「日常」的存在であるはずのアイとの「日常」的な会話のやりとりにおいて見ることができる。しかし本作がなんといってもすばらしいのは、このアイとの「日常」が再び相対化されてゆくどんでん返し的なあざやかな手法である。本作は、「日常」の追求という作中の最終目標に一貫して忠実で、決して読者を安易に「日常」にたどり着かせはしないのである。描かれるのは「日常」のロマン的な不可能性なのだ。

このように、本作はラノベがラノベを考えるラノベである。このことは、今回の私のレビューが「そもそもライトノベルが」という言葉とともに語られなければならなかった事態が遂行的に示している。ループモノであるという外観から、本作もループモノエロゲーと同じように解釈し読み取るべきだという読解が、もしかしたら主流になってゆくかもしれないが、ライトノベルはエロゲーがエロゲーを考えるほどにはエロゲーを考えることはできない。ライトノベルライトノベルをこそ考えるべきである。また、このように読者をしてライトノベルの本質を語らしめる未規定性こそが創造的ライトノベルの条件なのではないだろうか。今回のレビュー程度ではまだ何もこの作品について語っていないと言うべきである。特にアイという忘れられていた真ヒロインの、その他のヒロインが構成する円の中心に位置しながら同時に極度に空虚な性質について、様々な文脈に接続して語ることができるだろうと思われる。だが私にはそれを語り尽くせるほどの時間も能力もなく、さしあたって革命力82という評価をすることによって満足しておかなくてはならない。