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読書の感想など

『魔王な使い魔と魔法少女な』みみとミミ 感想



魔王な使い魔と魔法少女な (魔王な使い魔と魔法少女なシリーズ) (集英社スーパーダッシュ文庫)

魔王な使い魔と魔法少女な (魔王な使い魔と魔法少女なシリーズ) (集英社スーパーダッシュ文庫)

「君は私のしもべなの! 魔王様の命令は絶対なのー!」「そうは言うけど、リノは僕のしもべである方がうれしいんじゃない?」かちり「ハイ、ご主人様。私はご主人様のしもべであることが喜びですっ♪ ——って、言わせないー!」魔法少女、朝霧瑞希が使い魔にしてしまったのは魔王な少女だった!! 最終選考真っ二つ!! 第10回SD小説新人賞で審査員を困惑させた『問題作』がついに登場!! 「僕は——正義なんてものじゃ、ない」

「問題作」なる形容が手前味噌的に用いられるときに読者は注意すべきなのだということは、それが空しいスパム的広告の常套句となった現代ではもはや常識に類する知識であるが、そんな時代に尚「問題作」を自称して憚らぬ小説を読むことにわざわざ挑み、あまつさえそれをケチョンケチョンにけなす(あるいは文字通りの「問題作」認定を下す)ことは、この世から「自称問題作」を廃絶する目的におおいに資するところがあると思われる。それが今回この本を選んだ動機だ。言ってしまえば、「問題作」なるタグを付けられて店頭に並ぶような商品は、「問題作」とでも形容して売り出すしかないような出来損ないなのであり、宿便のように出すのか出さないのか曖昧なままで社内に留まった一企画をさっさと世に出して清算したい、スッキリしたい、という、出版社内部のくだらない事情に機を得ねば出版されるに値しないようなクソみたいな小説であることはあらかじめ明らかなわけだが、「自称問題作」はこうした予断を徹底的に粉砕するような強度を持った時に初めて成功する。余人が思うよりも、「問題作」を自称することによって高まる成功へのハードルは、絶望的に高いのである。

この小説を全体的な形態として捉えた場合、当然タイトルにも含まれる「魔王」と「魔法少女」が重要になってくるはずだ。しかし「魔王」はこの小説の場合、勇者・魔王モノが数多く流通しているラノベ市場の関心を引かんがためのこじつけ的なネーミングとして採用されたに過ぎず、勇者・魔王モノとして見るべき点はほとんど存在しない。

「魔法少女」に関しては、主人公の少年が魔法少女の能力を行使するという、『これはゾンビですか?』シリーズや、伊藤ヒロの『アンチ・マジカル』にも見られた要素が含まれているが、もはやこの小説には上記二作に見られたような、少年が少女へと変身することの奇異さに対する記述がほぼ全くない。少年が少女に変身してもなんらおかしいことではないかのようだ。魔法少女に限らず、我が国のオタク文化においてトランスセクシュアルあるいはトランスジェンダーな表現は珍しくはなく、むしろハイコンテクスチュアルなコンテンツであるライトノベルにおいて、性別の反転が、読者達の脳内で共有されたある自明な萌え要素の一つであると認識されている限りにおいてこそ、同じスーパーダッシュ文庫の『アンシーズ』のような開き直りが可能になるわけなのだが、しかしトランスセクシュアルを作品の重要な要素として用いるからには、性転換ものが脈々と築いてきた古典的美学を用いること、あるいはそれを知っていて敢えて壊すこと、いずれにせよ、古典的美学を踏まえていることを示すことが重要である。なぜならば、個人が思いつきで考えたことの九割九分以上のことは、歴史を知ることにより相対化されるからだ。

ではトランスセクシュアルの古典的美学とは何なのか。私の乏しい知識に照らし合わせてみると、ほとんどのTSモノは、性転換後にこそ(同性から)モテる、という古典的パターンを有している。例えば少年→少女に変身する場合は、変身後に男性たちからモテてしまう、というパターンがほとんど必ず含まれている。TSではないもののトランスジェンダーだとは言えそうな女装モノであっても同様で、女装後の姿で男性達からモテてしまって困る、というのが繰り返し描かれるパターンである(あるいはその困っている主人公の傍らに「本命」のヒロインがツッコミ役的なポジションで存在しているという特徴を付け加えても良いかもしれない)。であれば、現代においてTS/TGをやろうという作品は、上記パターンを用いるか、用いないにせよそれをいかに崩して、それによって読者がTS/TGに寄せる一般的な期待をどう斜め上に良い意味で裏切るか、ということを描かなければならないだろう。

そして本作ではそのようなTS/TGの古典的なパターンは無視されている。敢えて無視しているのか、それとも著者の無知や気ままな筆さばきがそうさせているのか、どっちなのかは我々にはわからないのだが、しかし推測することくらいならできる。手がかりは、過度に顕著なオナニー的文体である。ページの下半分はメモ帳にしろということか? それともラノベの形を借りたポエムなのか? しかもおちこちで唐突に顔を出すウンチクはなんだ? いくらこの小説が宿便すなわちウンチだったとしても守るべき節度はあるのでは? 無論、オナニーがそれ自体でダメだなどということを言いたいわけではないことは、『消えちゃえばいいのに』を評したときにも述べた。この世にはすごいオナニーとキモいだけのオナニーが存在する。すごいオナニーがすごいのには理由がある。それは読んだ者に模倣を起させるような力があるし、しかもその模倣させる力とは、その原因を合理的に解き明かすことが同時代には不可能だと思われるような不条理な力なのである。そういうものがすごいオナニーなのだが、この小説がキモいオナニーであることを証明するのに、まだ幾ばくかの言葉を必要とするだろうか? あとは実際に模倣が起こるかどうかを時間に任せて観察し続けるしかない。が、おそらくこのオナニーはキモいだけだろう。

私の印象として、このようなオナニーが作品自体を形態的に支配している本作において、著者がある合理的な展望の元に作品を組み立てたとは考えづらく(実際に著者のあとがきで、執筆において構成が全く定まらなかったいきさつが書いてある)、本作がTSでなければならぬ必然的な理由などどこにも持たなかったのではないかとおもわれる。なんとなく、雰囲気で、TSやら魔王やら魔法少女やらの要素を持ち出すことを、それだけで悪いことだとは言わないし、実際に色々な小道具的要素を組み合わせることによって醸し出される雰囲気こそが重要な小説も存在する(村上春樹とか森見登美彦とか)のだが、我々ラノベ読者の愛するTSや魔王や魔法少女が、くだらんオナニーの付け合わせに堕落させられているのを指弾せずには、ライトノベル文化の発展はあり得ないだろう。発展への文化意志をライトノベル読者共同体が持たないというのであれば話は別だが、私自身の自意識は他ならぬライトノベル読者共同体の内部にある。私の意志は、この「問題作」を斥ける。革命力0。