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hkmaroのブログ

読書の感想など

『双界のアトモスフィア』筧ミツル 感想



双界のアトモスフィア (富士見ファンタジア文庫)

双界のアトモスフィア (富士見ファンタジア文庫)

『科学世界』と『術式世界』、二つの世界の統合から50年。人口は統合前の3分の1まで減少、『術式世界』の異形による被害に苦しめられていた人々は、ある組織を設立。異形と対抗するために生まれた、D.S.T―それは人類の守り手。D.S.Tに所属しながら国立京学園に通う八劔姫也は、任務中、黒衣の軍勢に追われていた少女を助ける。その少女こそ、ある事件がきっかけで離ればなれになった幼なじみ―竜国ヴァルハラの皇女アイリスだった。「お願い、姫也…私を助けて…!」二つの世界が交錯する、学園アクションファンタジー。第23回ファンタジア大賞銀賞受賞作。

また過ちを犯してしまった。まんまとフィロソフィアだのテウルギアだのの横文字につられて購入してしまった。もうラノベには知性を求めないと誓ったはずなのに。これでもう三度目だ。そろそろ、こういう風に知性的なキーワードをあらすじに埋め込むラノベをこそ避けるべきだということに気付いて良い頃だ。「民俗学」を用いた『あなたの街の都市伝鬼!』しかり、「郊外」を用いた『だから少女はおもいでをたべる』しかり。こういう方面に期待を抱いて満足を得たためしがない。

もはやこうしたラノベがどうなのかということについて語る言葉がない。言うべきことは最近のレビューでかなり言い尽くした感がある。ラブコメ的テンプレ、俺TUEEE的願望充足、パトス的内実が先行したオタ臭い寒いギャグ&ネットの語彙と、友人・先生・ヒロインらへと自己分裂した、作者によるセルフ説教……。これらの側面を総点検した場合に、本作が革命力皆無(=0)であるということは明らかだろう。今回はこの点についての記述はもはや行わない。悪役の描写も酷く一面的で、倫理的意識に乏しい。この著者には著者自身があとがきにおいて言い訳がましく用いている若さ云々といった理由が問題にならないほど古典的名作への配慮が欠けていると思われる。こんな今時少年漫画でもなかなか見かけないベタな悪役を恥ずかしげもなく投入できる意識の低さは問題だ。どうせ弾圧するなら『JSが〜』よりもよっぽどこういう本を弾圧したほうが世のため人のためになる。

その上で敢えて書いておきたいことは少しある。この小説には、冒頭に引用したあらすじに書いてあるような世界観設定についての合理的な説明が存在しない。あらゆるSF・ファンタジー的な設定は、「なぜか」それが存在する、というだけでよしとされる。これだけならライトノベルに限らずファンタジーもそうなのだが、しかしラノベがファンタジーと違うのは、ファンタジーにおけるファンタジー的設定は世界観を規定するのに対し、ラノベのファンタジー的設定はその世界観と必然的な関係がないということだ。例えば猫耳娘が出てこようが吸血鬼の美少女が出てこようが、その世界観は基本的に学園モノであるかスレイヤーズ的擬似ハイファンタジーであるかのどちらかだ。後者においても魔法学園という概念が導入され始めてからは、ラノベの世界観は基本的に学園を中心に出来上がっていると言ってよい。もちろん、学園内だけでストーリーが完結する話ばかりではなく、学園の外で事件が起こる話も多数あるのだが、基本的な人間関係は学園を基準にして編み上げられる(先輩(お姉ちゃん)・後輩(妹)・クラスメイト(幼馴染、悪友)・委員長・生徒会長・部活仲間(ライバル)……)。人間関係の枠組みとして学園が中心にある以上、敵キャラやゲストキャラが主人公サイドに加入して恒久的に登場する場合、学園に<転入>してくることで新たに位置づけなおされる必要がある。なぜセカイ系以後のサブカルチャーにおいて学園がそれほど重要なのかについては宇野常寛宮台真司が既に述べていて、それは、現代ではどんな人でも共通の体験として持っているのが学校の記憶くらいしかないからだ、という説である。この説が正しいのかどうかの判断は保留しておくにしても、事実として九割方以上の現代人が義務教育を終えている日本では、これを全的に否定するのにもそれなりの実証的反論が必要だろう。

このようなSF・ファンタジー設定の無前提性はライトノベルに広くみられる特徴である。あるいはメタラノベ的ラノベに多いと言ったほうが良いのかもしれないが、ラノベの本質的な自己言及性は、そのラノベがメタラノベなのか否かを決定不可能にしてしまう。特に本作『双界のアトモスフィア』は、世界観の設定としては時代は2062年であるにも関わらず、登場キャラ達は現代のネット文化の定型句を用いる。ネット文化とラノベ文化の結びつきの強さを考えれば、この特徴をもって本作がメタラノベ的であると言うことも不可能ではない。また、本作におけるどこかでみたことのあるセリフ回しやお約束的展開が、過去のライトノベル作品の焼き直し、あるいは継ぎ接ぎだという印象を与えることも否定できず、そういう意味でもメタラノベ的である。無前提のSF・ファンタジー設定は、こうしたメタラノベ性を許容できる読者の精神性の下で同時に許容されるのだと考えられる。なぜならそれらのSF・ファンタジー設定が、ある種のラノベの定型パターンとして承認されているという期待の下で用いられ、消費されうるからである。この意味では、この世で最もラノベらしいラノベとは、SFもファンタジーも学園も何でもありの(事実ラノベの新人賞は応募条件においてジャンルを問わないのである)ごった煮的小説であり、このごった煮を可能にするためには必然的に自己言及的でメタラノベ的でなくてはならず、逆にラノベ業界を超えて売り出している越境ラノベは、ラノベの無前提性を許容する精神に依存しないラノベでなくてはならない。つまり、過剰にメタラノベであるTHE・ラノベは、越境ラノベたり得ないのではないだろうか。そして、メタラノベとしてラノベ界に革命を起こしたと考えられている『ハルヒ』は、実はこの無前提性を取り払ったからこそ越境可能だったのではないだろうか。つまり、『ハルヒ』はメタラノベの本質を欠いていたがゆえにこそ「メタラノベ」としてラノベ業界の外へ広がりうる可能性を獲得したのではないか。『ハルヒ』においては未来人も超能力者も宇宙人も、それなりの母集団や起源が合理的に説明されていて、むしろこの点においてラノベらしからぬと言っても言い過ぎではない。

また同時に、これは直観だが、2ちゃんねるなどのネット文化における自己言及性も、ラノベにおける自己言及性と明らかにパラレルだと思われる。こうした文化が生長することによってスレタイ風ラノベが大量発生するなどということは、ある意味当然のことだったのかもしれない。