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hkmaroのブログ

読書の感想など

『JSが俺を取り合って大変なことになっています』糸緒思惟 感想

JSの許嫁ができたんだが。しかも3人。まあ聞いてくれ。
突然、俺のクラスに金髪の幼女がやってきて、
「あなたがわたくしの許嫁ですのね?」←ナニソレ
今度は俺の妹が
「なら、あたしがアニキと結婚する!」←ハァ!?
さらに幼なじみまでもが
「わっ、私も、おにいちゃんと結婚したい……!」←今ここ
ノーマルな俺のモテ期がJSの修羅場で大変なことになっている!

<多少のネタバレを含みますのでご注意ください>

このラノベは最近ネットで色々と叩かれているラノベなのだが、ここではひとまずそれを度外視して純粋に作品単体をみてみることにしたい。

本作を読んでまず最初に指摘せねばならないのは、その幻想文学性である。これは、オタの都合の良い妄想が「ファンタジー」に過ぎないから、だとかいう、島耕作シリーズが中年のファンタジーであるのと同じ意味で言っているのではない。文字通りの意味で、幻想文学そのものだと思う。私が読んだことのある僅かばかりの幻想文学の中から想起したのは、サドの『ジュスティーヌ』や、マゾッホの『毛皮を着たヴィーナス』や、あるいはウィリアム・モリスの『ユートピアだより』もそうだし、ヴェルヌの『海底二万マイル』も思い出したし、幻想文学ではないかもしれないがメルヴィルの『白鯨』もこれに近いと思った。これらの作品におおむね共通しているのは、日常の世界とはまるで異なる諸法則が働く別の世界へと主人公が入り込み、ナビゲーターとともに目くるめく異世界を探訪する、という形式だ。その意味でマゾッホの『毛皮を着たヴィーナス』は多少毛色が異なるし、この差異には重要な意味があると思うが、ここでは述べない。

言うまでもなく本作のナビゲーター役は、ヒロイン輝夜(かぐや)のメイドである深籠(みかご)である。深籠が主人公のところにやってきた瞬間から、主人公をとりまく世界の法則は一変する。突然やってきた金髪の幼女は婚約者宣言をした上にいきなりディープキスをかましてくるし、それに嫉妬した同じ家にすむ妹の千世理(ちより)は極度のブラコンで「あたしがアニキと結婚する!」などと言い出すし、その妹の親友で近所にすむ幼馴染の妹である蛍奈(けいな)までもが、主人公に幼いころの約束という言質でもって結婚を迫ってくる。だが、最初のきっかけとなった輝夜の婚約者宣言とディープキスは、メイドの深籠による入れ知恵であったことが仄めかされる。

もちろんそれはことの始まりに過ぎず、それから先さまざまなエロ的な状況が主人公の身に降りかかってくる。主人公の大げさな2ちゃんねる的表現の多用は、それらの降ってくる諸状況に対して目が眩み、幻惑させられてしまったことの表れである。このような幻惑は、実際に幻想文学的表現の中核を成すものだ。

著者はあとがきにて、この小説を「残念な日常系」と自己規定しているが、これは誤りである。なぜなら、主人公がナビゲーターの深籠に手を引かれて連れて行かれる世界は、限りなく非日常的だからであり、その非日常性を強調するために主人公はネットの語彙という現代のオタク達にとって最大級のレトリカルな表現でもって、目の眩むような光景を描写するのである。起承転結的ないわゆる「ストーリー」が存在せず、驚くべき幼女とのエロエロな出来事が何回も降りかかってくるという、この物語の基本的な構造は、それが何事かを述べる物語的で命題的な性質をあまり持たず、むしろある完成して自閉した調和的世界を説明することにより成り立っているということを意味する。言うまでもなく多くの幻想文学も、そのような性質を持っている。

ただ、いわゆる幻想文学との違いももちろんある。それは思弁性の欠如である。現実の諸法則を超えた自立的な異世界を読者に対して「紹介」する幻想文学は、その自立的世界内の一貫性を保つため、あるいは自立的世界がいかに理想的な世界であるか、また同じことであるが現実世界がいかにくだらないかという、著者の否定性の発露として、思弁的にも論理的にも幻想世界を開示していかなければならない。特にサドの小説は、罪を犯すこと自体が快楽である、という作品世界を持つからには、世の幻想文学の中でも最高度に類する思弁性を持っていなくてはならなかったのだと思われる。

サドの小説が罪自体の快楽を描いたのとは異なり、本作は幼女とのエロのみが快楽の表現としてあるだけで、その分思弁の強度は免除されて然るべきだとは思うが、しかし幼女とのエロは、たとえその微妙な筆致によって法を犯すことがないと仮定してみても、倫理のコードには簡単に違反する。倫理のコードに反すること自体は幻想文学を不可能にせず、むしろそのことこそが幻想文学をより強化しうることはサドの小説を読めば明らかなのだが、しかしそれは思弁と論理によって強化されなくてはならない。しかし、本作には思弁が一切欠けている。

誤解を恐れずに言えば、本作は自立的世界を描いた小説の一つの佳作だろう。もちろんその内容が美的であるかどうかはまた別ではあるものの、この自立性を読み取れずに、「最近のラノベは〜」だの、「エロ小説のレーベルで出せ」だの、「犯罪」だの「変態」だのとのたまう奴らにこそ、現実と妄想の区別をつけろと言いたくなる(というか読まずに語っているのだろう。読まずに語ることができるのもラノベの面白さの一つだという説もある)。しかしながら、思弁も論理も持たないこの小説が、これらの批判に対して応えうる力を持たないのも事実だ。もちろん、批判に応えうる力を持っていたとしても思弁や論理は愚昧に対しては意味を成さないので、結局は弾圧の対象にはなっていただろう。しかし、高度な思弁性がもしこの小説にあったならば、仮に同時代人には葬られたとしても、後世の歴史に名を残すロリコン小説になってもおかしくなかったのではないかと思える。このような期待はそもそも、ライトノベルによせるものではあり得ないのかもしれないのだが。

ところで本作のタイトルは最近流行のスレタイ風で、これ自体批判の対象にもなるのだが、この小説では主人公は実際に同じスレタイでスレッドを立てる。作品内では特にこれに何らかの意味づけがされているわけではないのだが、このことはスレタイ風タイトルや、ひいては安易な「記号」的ラノベへの批判に対する皮肉として機能しうる。なぜなら、スレタイ風タイトルを批判する場もやはり2ちゃんねるだからだ。我々オタクは、「最近のラノベ」の酷さを語ったスレッドを、他ならぬ2ちゃんブラウザで見て書き込み、あるいは2ちゃんねるまとめサイトで見る。その我々が、スレタイ風のライトノベルを批判するということはいったいどういうことなのか。ライトノベルの文化は、およそ2ちゃんねるをはじめとするネットの文化と無縁ではあり得ず、むしろラノベはネットの文化を前提にして発展してきた。そうでなければ、2ちゃんねるの語彙やネットスラングが小説に表れるわけがない。これは、それらの語彙を読者が共有できる、という作家と編集者の計算の下に盛り込まれているのだと考えられる。同様に「記号」的表現なるものも、ラノベ文化が、ネット文化という社会的有機体とともに涵養してきたからこそ存在しうるわけで、それを他ならぬネット文化が弾圧しようとするとはどういうことなのか。これは、「お前らが買うからこんな小説が世に出回ってるんだろ」的な言説と同じではない。経済(つまり売り上げ)と文化は相互に関係し合ってはいるもののイコールではないからだ。小説の主題とは直接関係ないだろうが、一体誰がライトノベルを読んでいるのか、誰がライトノベルを叩いているのか、考えるきっかけにはなる。ここで答えを出すことはできないが、そもそもそんなことを気にしながらライトノベルを読むこと自体が間違いなのかも知れない。ライトノベルは、当然ライトに読まれるべきなのだから。革命力42。