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読書の感想など

『マイナー音楽のために 大里俊晴著作集』





マイナー音楽のために―大里俊晴著作集

マイナー音楽のために―大里俊晴著作集

今日、われわれが奇妙に思うのは、ある種のエレクトロニック・テクノロジーを使ったロックのなかに(中略)、現代音楽とのあいだのある種の架空の系譜を持ち込もうとする試みが見られることだ。(中略)
 もっとも表面的な例を出そう。一九九八年にリリースされた、ソニック・ユースの(ジム・オルークとの共演を含む)一連のアルバムのジャケットを見た者は、それが一九七〇年代初頭にフランスで出されていた現代音楽のアルバム・シリーズとあまりにそっくりなことに驚きを覚えずにはいられなかったろう。(中略)このシリーズに酷似したソニック・ユースのアルバム・ジャケットは、何をわれわれにメッセージとして提出しているのか。
 これがパロディでないことは明白だ。パロディとは、単純化して言えば嘲笑であり、ソニック・ユースが三〇年近いときを隔てて現代音楽を嘲笑するにはアクチュアリティがまったく欠けている。唯一可能な答えは、これは音楽内部ではなく、ジャケットにおけるサンプリングの試みである、という説明だろうか。しかし、それにしてはオリジナルと似すぎているし、彼らはほぼまったく同じ意匠で一連のアルバムを作っているのだから、ほとんど忠実に反復されたそれは、もはや異化効果をもたらすことのない、ただの再生産だろう。ここには、たんに「われわれは現代音楽にも興味を示していますよ」、といった程度のメッセージしか読み取れない。それは、あえて言うが、倫理的にさもしい態度なのだ。(151〜154ページ)

ロックと現代音楽を安易に短絡的に結びつける人間は大学時代によくみかけた。いや、印象としてそう感じていただけで、実はそんなにいなかったのかもしれないが、それでも特にスティーブ・ライヒジョン・ケージという固有名詞はスノッブ共同体に参加するための符牒のようなものであり、サークル部室でこれらの話題で盛り上がっている場面には実際によく出くわした。それらのスノッブたちの話を横で聞いているときに感じていた違和感が鮮やかに言葉にされているように感じる。ロックに前衛を持ち込むために、大文字の音楽の領域における前衛が、天下り式にいとも簡単に召還される。しかしその態度がすでにロックじゃない。現代音楽の持つ知的な雰囲気にあやかっているだけだ。それは自分は知的な努力を何もせずに、スティーブ・ライヒジョン・ケージのCDを知的なアイテムとしてお手軽に消費する態度でしかない。彼らの「さもしさ」に対して言葉で違和感を表明できるほどの知性をそのときの私も持ち合わせていなかったので、さもしさのレベルで言えば似たようなことを別の場面できっと自分も行っていたのだろうとは思うが、十年に渡って心に引っかかっていた鼻持ちならないスノッブたちの低俗な本質をやっと明晰に理解できた気がする。

しかし同時に、著者が執筆活動していた「ユリイカ」などの雑誌はむしろスノッブ達の集うサロン的な場であるし、現代音楽を語る際に依拠するフランス現代思想もスノッブが好んで引用したがる分野である。そして、著者は自分のその不可避的なスノッブ性に十分自覚的だったと私は思う。

ところで、外国語で論文を書いた人には分かって貰えるだろうが、論文の成功の鍵は、一重に、いかに優秀なネイティブの友人をつかまえてくるかに懸かっている。かつて、ある論文を書いた時など、高分子化学かなんかが専門のフランス人にチェックを頼んでしまったが、この時は凄かった。彼の名誉のために申し添えておくと、彼はグラン・ゼコール出で、日本語もマスターしている優等生だ。ただ、残念なことに、現代芸術に関しては、全く興味がなかったのだ。彼は「どうして、君の文章ってのは、こうスノッブなんだい。文法もひどいけど、そもそも内容が分からないよ」などと溜息をつきながら、がんがん直していって、勢い余って、うっかり引用文の中身まで添削しはじめた。僕は、横で見ていて、注意しようとしたが、そこで絶句してしまった。なんと、彼が添削していたのは、かのジャック・デリダの文章だったのである……。(379ページ)

もちろん上記引用箇所だけをもって著者が自己や自己の属する狭い文化圏の不可避的なスノッブ性に自覚的であったなどと言い切ることはできないかもしれない。思想・芸術の本場フランスにおいてさえも「高分子化学」の専門家からすれば現代芸術やフランス現代思想などは単にスノッブなだけだと思われている、と悲しげに述べているに過ぎないのかもしれない。しかし、もしそうだとするならば、つまり著者が書いている雑誌のスノッブさに無自覚であったならば、著者はもっとスノッブ好みの、サブカルと現代芸術を安易に短絡的に結びつける面白おかしい「批評」を沢山遺していなければ矛盾する。ソニック・ユースは、ジム・オルークは、現代音楽の文脈を踏まえている、すばらしい! とでも言ってヨイショし、スノッブ界隈を盛り上げるために、大学に勤める美学者からの「お墨付き」を与えていなければならなかったのではないか。だが事実は逆である。

このことは、著者が、自身影響を受けた間章のように「プロデュース」としての批評を行わなかった理由とも関連している。

――(笑)で、佐々木(引用者註:佐々木敦のこと)さんは極端に言えば、評論だけでなく、あまり知られていないミュージシャンを招聘したり、CDを出したりっていう実践的なところも含めて批評活動と考えていらっしゃるそうです。

大里 やっぱり僕はその辺が分裂するんだよね。さっき言ったように僕も紹介するのは大好きだし、そういうのを実践的にやるのはすごく良いことで大賛成なんだけど、ただ評論は別物だって思うんですよ。つまり紹介って情報だから、情報がたくさんあるに越したことはないけど、その中から評価するに足るものっていうのはそんなに多くないだろうと。まあ、それってもしかしたらすごく駄目な発想だよね。つまり、自分が見落としてるかもしれないものがたくさんあるはずで、いろいろなものをまとめてプロデュースしていく中から、そういう思いもよらぬものが出てくる可能性に賭けてるとしたら、それは人間的にとても偉い人なわけじゃないですか。それこそ佐々木さんの『テクノイズ・マテリアリズム』にしても若者に対して啓蒙する力があるベーシックな本ではあるんだけど、僕はそんな若者には、ケージを聴いて近藤譲と庄野進を読みなさいと言えばすむと思っちゃう。不親切だよね(笑)。だから、僕は自分を限定してるわけですよ、反動ジジイとして。近代的な視点を持って現状を叩くわけだから、反発してくれよと。でも、あえて言うとそれもひとつの啓蒙だと思うんだけどね。(455ページ)

著者は徹底したポストモダニストだった。ジョン・ケージの有名な「四分三十三秒」で近代の音楽は終わり、以後はサンプリング&リミックスやノイズなど何でもありの、ポストモダン的な戯れがあるだけである。このことは音楽以外の分野であれば「大きな物語の凋落」だとか、「歴史の終わり」などと言われているものにピッタリと対応する。しかし、徹底したポストモダニストからすると現代「新しい表現」を発明したと僭称する数多の「アーチスト」達に対しては次のような苦情が出てこざるを得ないのだ。つまり、歴史が終わって久しい現代に新しい表現などもはや存在し得ないのに、「新しさ」を騙るだけでなく、ほかならぬ「歴史の終わり」を告げた現代音楽にあやかってその詐欺行為を働こうなどとは、あまりに「さもしい」のではないかと。

そして作曲家の死んだポストモダンの荒野は、「反動ジジイ」であるはずの著者にとって必ずしも否定的な評価を与えられていたわけではない。以下を読むと、むしろ逆であるとすら思えてくる。

ブロックの扱う様々な事例が、”異端””外れもの”の印象をもたらすとしたら、それは、我々の中に、たかだかこの二〇〇年ほどの間に形成されたロマン主義的音楽観による正しい音楽の在り方が、意外と根強く刷り込まれてしまっているからである。その在り方とは、すなわち、しわぶきひとつ聞こえないコンサート・ホールで、演奏家が超絶的な名人芸を披瀝し、その演奏によって楽譜から忠実に賦活された作曲家の理念が、聴衆にあまねく伝わりうるという、ほとんど幻想に近いものである。そこには、音楽の形成、伝達過程で起きうるはずの、あらゆる情報の偏差、不確定性、ノイズの混入といったものが完全に無視されている。実際はそんなことなど決してあり得ないのだが。(163ページ)

ポストモダンの空気は、この幻想から我々を自由にしてくれるものでなければならないのだ。もちろん「徹底したポストモダニスト」という振る舞いは、あえてそうしているだけで、その「反動ジジイ」をも黙らせるような新しい音楽を、常に著者が待望していたことは本人も語っている通りである。そしてその本当に新しい音楽に対しては、幻想からの自由を求めていたのではなかろうかと、私は思う。現代の我々の大衆音楽は、どれくらいこの幻想から自由になり得ただろうか。どれくらい意識的に音楽の概念を再創造してきただろうか。もしくはそこまで行かずとも、音楽の概念の枠組みに対してどれだけの内省とともに自分の浴する大衆音楽を奏でてきただろうか。この本から学ぶべき点は未だ非常に大きいような気がする。