hkmaroのブログ

読書の感想など

ラノベ批評にふさわしい批評スタイル

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上記は三月末までの限定公開らしいが、お嬢様とメイド(じゃなくてなんかスール的な関係のようだ。斜め読みしかしてなかったので、ポストモダン動物化したオタクである私は勝手にメイドとして脳内変換して受容していた。すいません)の対話編という形をとっている。というかラノベの新人賞に応募予定らしいから、ラノベが自己言及するラノベということになる。もちろんラノベはそもそもオタク文化の固有名詞だとかパロディを作品内にちりばめる事が珍しくなく、出版サイクルの早い「ジャンク小説」である性質上サンプリング&リミックス方式も創作術としてかなり有効だろうし、しかも漫画の小説版、あるいはアニメの小説版、あるいはゲームの小説版、という出自をもつところからして本質的に自己言及的だと言えなくもないのだが、この開き直り具合には新しさを少し感じる。

ラノベにふさわしい批評文体というか批評スタイルというものがあるのではないかということは常々考えていて、例えば昔の文芸批評の批評文は批評する対象である小説と非常に似た雰囲気を持っている。論理的に小説を分析するというよりは、小説に寄り添いつつ何事か付け加える、という感じだ。こういうやり方が果たして正当なのか、誠実なのか、という問題は常にあると思うけれど、少なくとも批評したい小説の読者層に届く確率は高くなるだろう。

ラノベの批評も、ラノベ読者にこそ届かなくてはならないのではないか、と思わなくもない。また、こないだの日記でも少し書いたが間章における前衛ジャズと批評の関係のように、対象に批評が寄り添うことによって、批評の対象やそのファン層が論理を獲得していくことも大いにありうるのではないかと思う。今では前衛ジャズを聴く奴なんてほとんどいないが、それでも私の学生時代にやってた音楽サークルでは前衛ジャズを聴く人間がいくらかいて、彼らは前衛ジャズを明らかに知的で崇高な芸術だと認識していたようだった。それもこれも前衛ジャズと批評を結び付けようという努力をしてきた人がいたからなのではないかと思う。

だからといってラノベが知的で崇高な芸術だと認識されていくべきだとも特段思わないのだが、知的で崇高で芸術的だと評価しうるラノベが存在してもいいのではと思わなくもない。そういうラノベが存在する余地を与えるのは批評ではないだろうか。とはいえ批評が「寄り添う」などと書いたが、これは作家と批評家が癒着することではなくて(この癒着こそが批評の出発点なのだ、などという俗説もあるらしいが具体例は知らない)、全然真逆で、作家を否定する契機こそが常に必要だと思う。

冒頭にURLを書いた「批評」本文については、私がそもそも『とらドラ!』を最後まで読んでないので何とも言えない。しかし、こういった方式は一歩間違えれば同人誌のフリートークの枠内にとどまる危険性はありそうだ。こういうのは昔東浩紀もやってて、そんときはエヴァの批評だったと思う。東本人とアスカっぽい萌えキャラが対話編を繰り広げるというものだ。まあ、東でなくとも最近死んだ吉本隆明も「情況への発言」ではよく自己分裂して対話編を繰り広げていたのだが、とはいえ萌えキャラを立てて対話させるという批評スタイルは同人誌のフリートークコーナーを除けばもしかしたら東浩紀が最初かも知れず、東はそういう意味で批評史上に残る人物になるのかもしれない。それ以前に萌えキャラに対話編で批評をさせてた批評家なんていないんじゃないか。いたら知りたい。

あと、吉本隆明が仮に生きてて「大衆の文化だ」ってことでラノベ論をはじめてたりしたとして、それを想像したときに浅田彰的コマシャクレだとか、あるいはソフ・スタだとか言われないように気をつけないといけないように思う。吉本が一番偉かったのはそこだと思う。ソフ・スタを批判しすぎて勢い右翼勢に優しい批評家だと思われている憾みもなしとしないが、合理主義(=スターリニズム)を合理主義だと指弾する勇気、内なる合理主義を自己批判する勇気、合理主義が排除する個物を「絶対感情」でひとつ残らず拾い上げる態度、これらを忘れないようにしたい。スノッブをスノッブとして斥ける勇気。