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hkmaroのブログ

読書の感想など

『クロス×レガリア 吸血姫の護りかた』三田誠 感想

クロス×レガリア  吸血姫の護りかた (角川スニーカー文庫)

クロス×レガリア 吸血姫の護りかた (角川スニーカー文庫)

中華街の片隅で2人は出会った。少年の名は戌見馳郎、トラブル解決を1回千円で請け負う学生ボディガード。少女の名はナタ、自称仙人。ナタを護ると決めた馳郎の、平和な日常はわずか一週間あまりで終わりを告げる。人の氣を喰らう吸血鬼、“鬼仙”と呼ばれる者たちの襲撃。彼らの目的は、鬼仙を無力化できる最強最悪の兵器―ナタを狩ることだった。「レンタルマギカ」の三田誠が描く圧倒的スケールの新シリーズ、開幕。

形式主義と無知は、どちらも創作にあたっては避けなければならない臆見なのだが、ライトノベルの創作にあたっては、それが形式的制約を多々要求するという事情から形式主義へと簡単に堕落しうるし、他方ライトノベルは同人マンガやケータイ小説やオンライン小説と同様、作家と読者の共同性が強く働いているジャンルであるがゆえに、作家がその共同性に浴している限りにおいて理論的な無知がただちに作品の質を下げることを帰結せず、作家も読者も無知を正当化してしまいやすい。

作家は技術的に類型的なライトノベルを書くにしろ、そこに核としてパトス的な内実を伴わなければならないか、あるいは少なくとも内実を理解しなくてはならない。このパトス的な内実が形式に意味を与え、形式の内部にありながら形式主義を廃した、いわば有機的形式を機能させる。形式主義と無知の止揚はあらゆる場面で重要で、例えば法律に関しても法社会学的な内実が伴わなくてはならないし、カネに関しても何のためにカネを貯めるのかという内実がなければ拝金主義に陥る。このような形式主義はエスカレートすればいずれスターリニズムをもたらすし、あるいは逆に無知に開き直ったとしてもただただ不毛な蒙昧があるだけだ。

上記を踏まえた場合、『クロス×レガリア』におけるスターリニズム的表象は登場人物から筋書きから文体や設定まであらゆる点に及んでいて、ライトノベルの全体主義とも言える地平を(恐らくはからずも)表現していると言わねばならない。このスターリニズムは、「陳腐」という言葉では汲み尽くせない意味を持つ。なぜならスターリニズムは自ら「陳腐」を望むからだ。この小説には技術的にダメな点はほぼない。定石を守っているし、練りこみの努力も認められる。しかし同時にそれが息苦しさをも醸し出している。

このスターリニズムを打破するためには、内実によってそれが有意味化されなくてはならない。三田誠の代表作である『レンタルマギカ』にはそれがあった。一巻では表紙に登場していない正ヒロイン、アディリシアの存在がそうである。表紙に登場しないということは、アディリシアの活躍や人気は、作家および編集者サイドの合理的計算の外側にあるということを意味しうる。もちろんそれすらも作家・編集者の計算の枠内だという可能性もあるが、読者にとってはそうではない。読者にもラノベを読む際の計算が存在する。むしろラノベだからこそ読者には他の一般小説の読者にはない計算が強く働くのである。例えば、金髪縦ロールのツンデレお嬢様が登場する小説を読みたい、だとか、巨乳のお姉さんと微乳の妹に同時に迫られるラノベが読みたい、だとかの欲求が先行し、そういうヒロインが表紙に出ているラノベを選ぶということは日常茶飯なのであり、へヴィなラノベの読者にとっては、なんだかわからないけど面白いらしい、という未知の物語への期待でライトノベルを読むことのほうが実は少ないくらいなのだ。

読者の先入観を良い意味で裏切った『レンタルマギカ』とは対照的に、『クロス×レガリア』は、未知の物語を期待させる意匠(中華風オカルト VS SF的装備)と、スニーカー文庫にしてはやや珍しい厚さを持っていながら、その内実はスターリニズム一色である。

面白いか面白くないかで言ったら、私はこの『クロス×レガリア』は全く面白くないと感じた。その他の読者がどう感じたかはわからないが、恐らく世間的にもそれほど評価は高くないのではないか。しかし、そうだとしてもこの小説には価値があると思う。なぜなら、技術的な洗練が、つまりよく整えられた形式が、それ自体では決してライトノベルとしての充実を意味しないということを示す非常に良いサンプルケースだと思うからだ。また、このよく整った形式もそれ自体で価値がある。もちろん昨今のクソラノベに欠けているのはパトス的な内実であって、形式主義こそが跋扈しているのであり、状況を打破するような力はやはりないと言わねばならないのだが、逆に内実だけが迸ってオナニーに終わってしまう傾向を持つラノベも未だ少なくなく、そういうオナニーに対しては良くできた形式によって規矩を与えなければならない。

そうした両義性を評価し、革命力50とする。