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hkmaroのブログ

読書の感想など

今日は午前中からホフマンの短編集を読んで、昼過ぎに読み終えたら散歩に出かけた。小雨だった。新所沢周辺を散歩していたが、そこで米軍の基地を見つけた。

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所沢にも米軍の基地があるというのが驚きだったが、しかしいわゆる基地という単語が惹起するような建物や兵器は何もない。あるのは鉄塔だけだった。

調べてみると、ウィキペディアに項目があった。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%80%E6%B2%A2%E9%80%9A%E4%BF%A1%E5%9F%BA%E5%9C%B0

寂れた商店と普通の民家が立ち並ぶ所沢の住宅街に、ポッカリと穴を開けた空間。聳え立つ鉄塔。否応なく不安な気持ちをかきたてられる。高校まで隣接している。この場違い感。単純に景観として不気味だし、看板も異様な威圧感を放っている。しかもそれでいて何があるというわけでもない。戦車やら戦闘機やら迷彩服を着た外国人やらがウロウロしているならまだしも、あからさまにそういうものがあるわけではない。もしかしたらあるのかも知れないが、あったらあったらで、実はそういうものがあるのに目に見えないというのが不気味だ。

携帯のナビ機能を使って散歩した。ナビに逆らって歩くと、勝手に経路を修正してくれる。だが、歩いてわかったのは、所沢は徒歩で散歩するような場所ではないということくらいだ。それでも鄙びた景観は心の慰めになった。生まれ故郷の景色を思い出す。

所沢はいまや郊外のベッドタウンであって、でっかいマンションがどんどん建って、宮崎駿が言うような蔵作りの町並みなんてのはもはやないわけで、そういう意味でローカル性を失った町なのだと思っていたけれど、散歩していると畑はあるし、材木屋はあるし、町工場はあるし、町工場ではたらくヤンキーあがりの兄ちゃんはいるし、ヤンキーあがりの兄ちゃんがメシを食いにいく山田うどんはあるし、まあ山田うどんはちょっと違うかもしれないが、ローカルな経済がそこにあるような気がした。普通の現代人は基本的にサラリーマンであり、親の職業を子が継ぐとかということはあまりないわけだが、例えば材木屋は昔から材木屋で、材木屋を商売にしようと思ってやっているわけではないのではないかなどと思う。町の分業体制下において、材木屋はたまたま材木調達係としてあるとき任命されて、それ以来なんとなく町に材木を必要としている人がいたらその人に材木を提供する役割を果たしているだけで、その基本的な性質は日本の経済体制が互酬制だろうと資本制だろうと共産主義だろうと変わらないのではないかと思う。もちろん、そんな材木屋が資本家どもの勝手な都合により不況のあおりを食らって倒産するということは十分にあり得るわけではあるが、それは材木屋が悪いわけではない。

働くことは広い意味で商行為に過ぎないのであって、カネが儲かりさえすれば材木屋は材木屋を辞めて別の仕事を始めてもよいわけなのであるし、その自由も一応認められているのだが、しかし労働って本当にそういうことなのか。子供の頃に労働に対して思い描いていたことの中には、給料をもらうだとか商売を鞍替えするだとかいう概念は、全く含まれていなかったとは言わないが、なんとなく存在感が薄かった。労働・職業とは広くその人が何をしている人なのかを表現するものだった。現在でも労働や職業にそうした側面をみとめることはできるのだが、現代ではカネのよさとやりがいという二つの要素が当人の資質と照らし合わされて職業が決まる。職業は、必ずしもその人が何をして生きているのか、ということを表現しない。一方材木屋は材木屋をして生きている。材木屋の職業選択には、カネもやりがいもやりたいこともまるで関係がない、と言っては言い過ぎかもしれないが、ローカルな必要性から分担された役割は、そうした要素よりも強く材木屋に材木屋としてのアイデンティティを付与するだろう。材木屋が材木屋としての役割を遂行する限り、材木屋はその共同体内の、例えばうどん屋のサービスを受けられるし、床屋のサービスを受けられるし、同様にその他の各種商店のサービスを受けられる。この基本的な仕組みは資本制においても変わらないわけだが、しかし現代の資本制においてはカーディーラーやスーパーマーケットなどの、共同体を超えた間共同体的な業者が侵入してくる。ローカルな分業体制は必然性を失う。この場合労働と労働のユートピア的交換は歪になっていくと思われる。

以前『勇者になれなかった俺は〜』というラノベをレビューしたが、この小説でも労働と労働の交換というユートピア的な分業の本質に目覚めたヒロインが、そのことを賛美するシーンがあるのだが、それは作中の世界がユートピア的交換が不可能になっている現代の資本制の問題点を無視していたからこそ成り立つ。資本制や貨幣によってもユートピア的分業は可能だと思われるのだが、しかしそれは公平な分業が可能になっている限りにおいてである。偏りを抑制する機能がどこかで必要になる。国家的な分業が可能になっている限りにおいては、カーディーラーもスーパーマーケットも公正な職業として存在しうる。国家的な分業が操舵不可能になっている場合、――つまりそれは偏りを抑制する機能が失われている場合に他ならないが――カーディーラーやスーパーマーケットはユートピア的分業を破壊する。

家に帰ってからは麦とホップを飲みながら『田原総一郎の遺言』を観ながら寝た。夜起きた。

ホフマン短篇集 (岩波文庫)

ホフマン短篇集 (岩波文庫)

ホフマンの短編集を読み終えた。なんでこの本を読んだのかというと、「砂男」なる短編が読みたかったからなのだが、この話は主人公のナタニエルがクララという現実の恋人よりもオリンピアという機械人形に惹かれる、という大まかなあらすじを持つ。で、それについて訳者が、以下のように述べている。

しかし、異常とは何だろう? おさだまりのこの世の秩序に従って、変わりばえのしない幸せを手に入れるのが正常であるのだろうか。幻想の中に踏みこんだ大学生にとっては自動人形のオリンピアこそ理想の恋人であって、処世にたくみで常識あるクララが自動人形にすぎなくなった。彼は現実の世界は失ったかもしれないがもう一つの世界、第二の人生というべき夢の世界は確実に手に入れた。そして夢がそうであるようにこの世界もまた浮世とは別の秩序のもとにある。現実の世界を失って別の秩序に踏みこむとき、一般にそれは狂気とよばれるが、それというのもほかに適当な言葉を知らないせいかもしれないのである。

この解説について、何か底が浅いなあという感想を抱いた。ナタニエルはオリンピアが生身の女だと信じ込んで愛していたわけであり、自分の話の腰を折ってろくに聞いてくれないクララよりも、(自動人形であるがゆえに)黙って自分の話を聞いてくれるオリンピアのほうが自分を理解してくれていると思い込んで、人間としてより愛すべきだと判断したわけだ。で、オリンピアが人形に過ぎなかったことがわかってしまったときに、ナタニエルは本格的に狂気に陥る。ナタニエルにとっては自動人形の恋などは全然夢の世界でもなんでもなかったのではないか。しかも狂気に陥って最後は死ぬのだから夢の世界を手に入れたとも言えない。