読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

hkmaroのブログ

読書の感想など

『鳩子さんとラブコメ』鈴木大輔 感想

鳩子さんとラブコメ (富士見ファンタジア文庫)

鳩子さんとラブコメ (富士見ファンタジア文庫)

僕こと平和島隼人は、平和島財閥の跡継ぎ候補。いずれ財閥のトップに立つべく、メイドの鳩子さんから帝王学を学ぶ日々なんだけど―「坊ちゃま。ぶつぶつ独り言を呟かないでください。気持ち悪いです」「坊ちゃま。わたくしに押し倒されたくらいで動揺するようでは、跡継ぎ候補として失格です」「坊ちゃま。いくらわたくしが絶世の美女だからといって、いやらしい目で見ないでください。警察を呼びますよ」…うん、今日も鳩子さんは平常運転で容赦ないね。そろそろ新たな性癖に目覚めそうだよ僕は。―ド直球ラブコメ。

帯にはこうある。

メイドで
幼なじみで
妹で
お嫁さん候補!?

つまり、豚どもが脊髄反射で飛びつく属性を一人のキャラクターに同時に宿らせることによって豚どもの人気を獲得しようという意図があるわけだ。その一人のキャラクターというのは言うまでもなく鳩子さんのことであり、最後まで一貫して「鳩子さんの可愛さ」を描くという核を持った小説として、そういうキャラ設定を取り入れる作家・編集者側の気持ちもわからなくはない。この小説の眼目は、いかに鳩子というキャラクターが読者である萌え豚どもにアピールするのかという点にあり、「メイド」だの「幼なじみ」だの「妹」だの「お嫁さん候補」だのといった属性を同時に付与することで萌え属性の効果を二重三重に獲得できるのではないかと作家・編集者はおそらく目論んだのだろう。

だがこの夢のようなアイデアは作者と担当編集の萌え豚に対する不誠実さを如実に語る。

面白い物語がなぜ面白いのかというと、その物語の中心に「面白さの核」があるからであって、この「核」は作家と読者の間に共有されていなければならない。もちろん作家は読者の気持ちを丸ごと理解する必要はないが、萌え豚に媚びる小説を書くのであれば、一体萌え豚がどのような物語に脊髄反射するのかについての真摯な研究が必要だろう。

この真摯さの欠如を私はこの小説に見出す。なぜなら、鳩子はメイドでも幼なじみでも妹でもお嫁さん候補でもないからである。メイドにはメイド固有のイデアがある。同様に、幼なじみにも妹にもお嫁さん候補にも各々に固有の理想像があるのだ。その固有性は、「理想的なメイドと理想的な妹は一人の登場人物において同時に成り立つか?」という問いを必然的に発生させる。理想のメイド像を徹底させたら、理想の妹像はそこに存在し得ないのではないか。

言いかえれば、この小説には採用された諸属性に対する美意識だとか美学だとか呼ばれるもの一切が欠如している。このことは、ライトノベルがジャンク小説だからという理由だけで免除される欠陥ではない。よく訓練された豚ほど高い美意識を持っているものなのだ。

美意識や美学は、個人的に抱くものではありえない。逆に、それらは共同性の中で共有されるものである。武士の美意識、ゴスロリの美学、それらは各々の共同体内部で共有されることにより一層密度を高め、伝播してゆくものなのである。

だが、ライトノベルのジャンクさに胡坐をかいて、育ちつつある萌え豚共同体の美意識や美学(変態紳士の美学)を無視する小説がイラストの力やエロシーンの力にもっぱら頼って市場に広まったらどうなるだろうか。将来的にはそれ自身の美への無頓着が、共同体の美意識や美学を破壊し、結局のところそれ自身が依存している萌え豚共同体と萌え豚市場をも散逸させてしまうのではないか。

萌え豚たちの夢見る世界が、現実世界から自立した現世否定の物語を志向する可能性を持つことを考えれば、萌え豚たちの美意識と共同性の破壊は、逆説的に益々豚どもの動物化を促すだろう。萌え豚は萌え豚を極めるほどに、萌え豚を脱して超えてゆくのである。我々がライトノベルに託す可能性は、そうしたものでなければならないはずだ。革命力0。