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hkmaroのブログ

読書の感想など

『アクセル・ワールド』におけるタクムの重要性 ストレイボウとオルステッドに関連して

アクセル・ワールド〈1〉黒雪姫の帰還 (電撃文庫)

アクセル・ワールド〈1〉黒雪姫の帰還 (電撃文庫)

<……ネタバレを含みますのでご注意ください……>

『アクセル・ワールド』がアニメ化するとのことで、めでたい限りであります。同作品は私が現代ライトノベルの最高傑作だと思う作品であって、ますます『アクセル・ワールド』の名があまねく大衆に広がるであろうことを諸手を挙げて喜んでいる次第であります。

しかしこの作品は面白いですね。改めて読み返してみましたが、ラブコメの常套パターンである乙女ちっくまんが的展開をきっちりと守っています。しかもその対象が黒雪姫先輩とチユリの二人に適用されることによって、効果を倍加させていますし、さらにその上乙女ちっくでは主人公の少女は「平凡」なわけですけれども『アクセル・ワールド』では主人公のハルユキ君はデブ・汗っかき・いじめられっこ・ゲームオタ・しかも卑屈、などなどマイナスな設定が沢山付与されていて、なおさら美少女たちにモテてしまうためのハードルが高くなっていて、乙女ちっく効果は倍増どころではなく四倍くらいになっています。すごい。もしもこの作品が2012年に賞をとっていたら、さしずめ「デブキモオタネトゲ中毒廃人の俺が美少女たちに立て続けに告白されるわけがない!?」とかいうタイトルになっていそうな感じです。

ちなみに乙女ちっくまんが的とここで言っているのは、以下のようなある一つの物語のパターンです。平凡な私と、その私が片思いしている王子様がいて、ある日私は、王子様が私なんかよりもっと美人な女性と一緒にいるところを見てしまい、失恋してしまったと思い込むのですが、そんな私を王子様が追いかけてきて、美人なあの子よりも「ありのままの君が好きだった」と言ってくれてめでたしめでたし――とまあ、こういうような物語です。

ところでハルユキのキモオタ性、つまり非リア充であることを強調するために重要な役割を演じているのがタクムという優等生キャラなわけであり、絵に描いたようなリア充なわけであります。しかしこのタクム君は実は心の中でハルユキに対する嫉妬心を抱いている。それはチユリに関してであります。似たような構図は『ライブアライブ』のストレイボウとオルステッドとアリシア姫の三角関係にも見出せます。主人公である「ハルユキ=オルステッド」に対して、親友である「タクム=ストレイボウ」が、ヒロインである「チユリ=アリシア」に関して嫉妬心を抱いている、という点が共通しています。

しかしながら相違しているのは、結局ヒロインの気持ちを得るのはどっちなのか、という結果です。『アクセル・ワールド』においては、一巻の時点ではどうやらチユリはハルユキのほうが本当は好きなのらしい、ということが示唆されるわけでありますが、翻って『ライブアライブ』においてはストレイボウがアリシア姫の愛を得るわけであります。その愛情の獲得の仕方が、両作品で同じなのも大変興味深い。すなわち、ハルユキは、タクムに言わせれば、

「みたい、じゃなくて焦ってたさ。このままなら、チーちゃんは一生君の面倒を見ようとするだろう、ってね。ハルがアーカイブしてた、大昔のマンガみたいにさ。『あなたはあたしがいないとダメだから結婚してあげるわ』って。――ああ、もしかしたらあれも、チーちゃんを誘導する作戦だったのかな?」(『アクセル・ワールド1』236ページより)

ということであり、つまり、ハルユキは己のダメさを売りにして『ドラえもん』ののび太よろしく「しずかちゃん=チユリ」の愛情を獲得するわけなのですが、ストレイボウがアリシアの愛情を得る理由も大変似ています。アリシアは、極めて優秀な勇者としての存在であるオルステッドの影で劣等感にさいなまされ悩み苦しんでいるストレイボウの姿を見て、これに愛情をささげることにするわけであります。

この人は‥‥

いつも あなたのかげで
苦しんでいたのよ‥‥

あなたには‥‥

この人の‥‥

負ける者の 悲しみなど
わからないのよッ!!(こちらより引用させていただきました)

私はここに、ノーマルモードのまま突き進んでしまった物語と、乙女ちっく的にノーマルモードを仮構したに過ぎないイージーモードとしての物語との相違を見出します(ライトノベルにおけるノーマルモードとイージーモードについては、ガガガ文庫の『ワールズエンド・ガールフレンド』(荒川工著)における田中ロミオの解説を参照)。もちろん、究極的には両者ともに何らかの願望充足であることに変わりはなく、両方の展開それぞれに読者・プレイヤーの願望を充足する要素が潜んでいることに違いはありません。例えば、オルステッドの孤独は、人間など裏切るものだ、という念を具体的な裏切りの体験と共に持ったことのあるプレイヤーと、オルステッドの同一化を促し、ひときわ強いプレイヤーの愛情をオルステッドというキャラクターに抱かせる結果を生み出すと考えられますし、ハルユキのモテモテぶりは、期待は裏切られるものだと気取っているにもかかわらず、本当は俺はもっとモテてもおかしくないはずだ! と思っている読者の、あるいはもっと率直に、モテたい! と思っている読者の願望を充たすと考えられます。

ちなみにノーマルモードの周到さという点でいえば、『ライブアライブ』よりもむしろ『アクセル・ワールド』のほうが徹底していると言えそうです。なぜなら、オルステッドのほうがストレイボウより相対的にリア充だったとはいえ、ストレイボウもやはり概ねリア充であることには変わらないのに対し、ハルユキはタクムに対してのみならず、ゲーム以外は、世間一般の平均からみても大変劣後したゴミみたいな存在として描かれているからであります。人生の難易度として、困難な道が用意されていそうなのはストレイボウよりもハルユキ君のほうだと思えます。

にも関わらず本質的にイージーモードなのは明らかに『アクセル・ワールド』のほうです。オルステッドは勇者としての役割を全うできなかった存在なわけですが、仮にオルステッドがもしも一貫して勇者的であったとしたら、というか、そういうお約束を守る物語として『ライブアライブ』があったとしたら、おそらく必然的にアリシア姫とオルステッドは結ばれていたでしょう。そしてストレイボウは悩み苦しみつつも、最終的にはオルステッドとアリシア姫を影から助ける良き友として描かれていたでしょう。つまり、『ライブアライブ』の中世編はまんまFF4のセシル・カイン・ローザの三角関係を再生産していたことでしょう。もちろん、FF4のほうがセシルが勇者としての役割を一貫させているイージーモード的な物語であるわけです。

ここで我々は仮説として以下のようなことを言ってみることも可能なのではないかと思います。つまり、イージーモード的な物語とは、主人公の勇者性、ヒーロー性、中心性、あるいはトートロジーですが、主人公の主人公性が担保された物語である、と。そしてその様な物語は現実表象とはまた別の、自立的世界の表象に向かうと考えられます。自立的世界とは、つまり主人公をとりまく環境の難易度がイージーモードであるような世界であります。つまり、現実の原則がまるで働かない、独特の世界であるから自立的世界なのです。そしてノーマルモードとはその名の通り主人公をとりまく環境の難易度が普通・現実そのもの・ノーマルであって、現実の原則が物語内にも働いているような世界を描くのだと思われます。つまり、写実的だとか自然主義的だと呼ばれるような物語と極めて関連が深いのではないかと推測されるわけであります。

長々と語っておきながら結論めいた部分においては極めて当然のことしか言っていないように思いますが、しかしノーマルモードの物語は必ずしも写実的で自然主義的であるわけではありません。たとえば機動戦士ガンダムとかデビルマンなどは全然写実的でも自然主義的でもありませんが、やはりノーマルモードと言わねばならない物語でしょう。他方、どちらかというと写実的で自然主義的なのに話の内容としては完全にイージーモードな、最近のエンタメ小説が存在します。

上記みたように、私のような矮小な存在がこれを読んでもこんなにもくだくだと語れてしまう深い内容を持った稀有なライトノベルが『アクセル・ワールド』という作品なのでありますから、皆さんにおかれまして是非これを読んでその豊穣な作品世界に触れて欲しいと思う次第であります。冒頭に述べたように、近々アニメが放送されることも決定しているとのことで楽しみなことこの上ありません。まあ、私はテレビを持たないので見ることができないのですが、沢山の人々が『アクセル・ワールド』に触れるということは純粋に喜ばしいことです。