読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

hkmaroのブログ

読書の感想など

クリエイトすることについて

前日の日記からの続き。

前日の日記においては、万人がクリエイターでありうる社会が理念化され、その具体的なあり方として文化的な人間が同時にクリエイトするクリエイターであるような社会を考案した。そして、そのような社会を現実化するに当たって最大の妨害者となるのがロマン主義であった。このロマン主義はエンタメ資本主義と密接に絡み合っていることも確認した。そこで私は、クリエイトするということが一体どういうことなのかをじっくり考えてみる必要性を感じた。なぜなら、クリエイト行為そのものの特質を知れば、ロマン主義が如何様にして万人のクリエイトを妨げているのかを知ることもでき、それに対処することもできるだろうからである。

とりわけ、何故ロマン主義が万人のクリエイトを阻害し得るのかという点が、当然問題になってくる。ここで、クリエイターの定義にいくらかのことを付け加えることによって補助線を引いてみたい。

クリエイターの定義とは、前日の日記によればクリエイトする権利を持つ者のことなのであった。クリエイトする権利とは、個人が勝手気ままに同人誌を発行する権利のことではない。そのような権利はだれでも持っている。ここでいうクリエイトする権利とは、資本を動員したクリエイトを行う権利であって、平たく言えば他人のカネでクリエイトする権利のことである。クリエイトするにあたってカネを動かすことができる人のことを、我々はクリエイターと呼ぶ。ここで、個人的なクリエイト行為とクリエイターのクリエイト行為を区別するために、前者をクリエイション、後者をプロジェクトと呼ぶことにしたい。クリエイションには家計を脅かさない程度のカネしか伴わないが、プロジェクトには家計の範囲を超えた莫大なカネが伴う。

ここにおいてようやくクリエイターにおけるクリエイト行為の定義が本質的に問われることになる。クリエイターはプロジェクトを動かす権利を持つ人のことである。クリエイト行為の内実とは、前日の日記で既に述べたように新しい文化を創ることである。言い換えれば、家計の範囲を超えた莫大なカネを使って新しい文化を創る権利を持つ人がクリエイターである。ということは、幅広い範囲の人がクリエイターだということになる。通常クリエイターだと思われていないような職種の人も、この定義に従えばクリエイターだということになる。例えば、政治家の中にもクリエイターの範疇に含まれるような人が存在しうる。

政治家、つまり権力者とクリエイターを対比して考察することには大きな意義がある。既に確認したように、クリエイターも一種の権力者だからである。つまり、クリエイターは権力者の下位区分なのである。

我々が問題にしたいクリエイター像は、ロマン主義と密接に結びついている。ロマン主義的な権力者を想起することによって、問題は一層鮮明になる。ここで付言しておくべきは、私の言うロマン主義とは通常のロマン主義とは意味する内容が違うということだ。というか、ロマン主義という言葉を使うのは適切ではないのかもしれない。本来それは作家主義とでも呼ぶべきものなのかも知れないが、作家主義という言葉もやはり固有の文脈を持つようであるし、故大里俊晴氏が講義でしきりに「悪しきロマン主義」と呼んだ、作家と聴衆の区分への批判精神を汲んでいきたい。このロマン主義は思想史、文学史上のロマン主義とやはり無縁とは言えないが、本来それが意味しなかった対象までもロマン主義の権化とみなす。例えば「悪しきロマン主義」は、歴史上のロマン主義と違い現在まで一貫して隆盛を保っている。現代の「悪しきロマン主義」の具現的存在は、言う迄もなくクリエイターだが、その中でも特にアーチスト達である。

さて、「悪しきロマン主義」の権力者としてどのような人物を挙げることができるだろうか。それはやはり、ボナパルティズム権威主義の系譜に連なる権力者たちであろう。うろ覚えだが思い出すのは、柄谷行人の『トランスクリティーク』に出てきた分割地農民の話だ。詳しい内容は忘れたが、分割地農民という寄る辺のない境遇の人びとがいて、彼らには自分を代表してくれるような象徴が存在しないのだが、そういう人たちが選挙などで簡単に権威的な存在、具体的にはナポレオンの甥、のような、よくわからないけどなんか凄そうな存在に動員させられてしまう、というようなことが書いてあった。このことはマルクスの『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』という著作にさらに詳しく書いてあるらしい。

「悪しきロマン主義」の本質は、上記を顧みるに、非権力者たちが「よくわからないけどなんか凄そう」な権力者に自分を「代表」させてしまう機能にあるのではないか。特に「代表」の機能に私は注目する。これは、個人のクリエイションをクリエイターのプロジェクトに「代表」させることによって、プロジェクトがクリエイションの機会を根こそぎにするという直接の妨害行為を意味しうるからだ。さらに、よくわからないけどなんか凄そう、という「権威」がそれに加わる。この「権威」をわれわれの批判の対象に当てはめてみれば、「よくわからないけどなんか凄そう」だと思われているのは、個々のクリエイターが背景に背負っているギョーカイであろう。ギョーカイの仕組みは、露悪的にギョーカイ自身が提示することもあるが、それは誇張された、あるいは無害化されたギョーカイ表象でしかなく、ギョーカイの内実は決して非クリエイター層に知られることはない。ギョーカイの、一般市民には推し量ることもできない複雑性、不透明性、過酷さと、それにも関わらず同時に存在する華やかなクリエイター間の交流が、クリエイターに「権威」をもたらす。

となれば、ギョーカイの仕組みを暴き、それをあまねく大衆に知らしめ、ギョーカイの権威を徹底的に失墜させることこそが、次なる課題として現れてくる。もとよりそのような大きな問題を私のような矮小な人間が解決することはできないだろうが、その素描くらいは試みてみるつもりだ。