読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

hkmaroのブログ

読書の感想など

クリエイターになれるのかなれないのかは、現代の文化的生活において非常に重要な分かれ道だと思う。クリエイターはその名の通り新しい文化を創る権利を持つ。ここでいう新しい文化とは、ミクロな意味では個別具体的な新しい創作物から、マクロな意味ではある文化的ムーブメントまで含んだものだ。クリエイターがいかに現代で偉い人だと思われていて社会的地位が高いのかということについては、このブログでさんざん恨みがましく書いてきたのでここでは繰り返さない。

上記を踏まえると、ではいかにしてクリエイターになるのかが問われる筈である。文化的な生活をしている者にとってはクリエイター層のほうが非クリエイター層より上位に位置しているわけだから、文化的な人間はみんなクリエイター層に参加したいわけだ。そういう欲望が存在しているからには、ではどうやったらクリエイターになれるのかをみんな考える筈だ。

これに関しては私は実際にクリエイターではないので何も正しい答えを持たない。しかしながら、推測でものを言うことはできる。おそらく非クリエイターがクリエイターになるには、クリエイターたる証明が必要だ。その証明にはいくつか種類があると考えられる。

一つは、クリエイトした実績である。一回ギョーカイでクリエイトして、その履歴が認知されているものは、クリエイター層に参入することができる。

二つ目は、ギョーカイが設けた試験を突破して資格を得ることである。クリエイター層においてこの資格試験は通常「新人賞」や「オーディション」や「フィルムフェスティバル」などと呼ばれる。

三つ目は、周囲にクリエイターが存在して、そのコネを持っていることである。

クリエイターでありながら一切クリエイトしていない人物が世の中には存在することを鑑みても、クリエイターはクリエイトするからクリエイターなのではない。冒頭に、クリエイターは新しい文化を創る権利を持つと書いたが、権利を持っているだけで実際に創る必要はない。クリエイターはクリエイターだという資格証明を持っているからクリエイターなのである。もちろん、その資格証明を得るための手段の一つとして、実際にクリエイトする活動が選び取られることがかなり多いという事実はあるにしろ、クリエイターの本質はクリエイトすることにあるのでは決してない。むしろ、クリエイターの本質はクリエイトする権利にこそある。この権利を持っていると言う意味で、クリエイトしているクリエイターとクリエイトしていないクリエイターは対等なのであり、この権利を持たない人間もクリエイトしていようがしていまいが同格でしかないのである。私が作家と読者(消費者)の身分制と呼んでいる階級制度は、ここに由来している。

コネを持っているかどうかは運によるところが非常に大きくなるので、三つ目の手段はここでは度外視すると、ほとんどのクリエイター志望者が実際にクリエイトする活動を通じてクリエイターになる方法を採らざるを得なくなると考えられる。

しかし、最近疑問に思うのはクリエイトする活動にも個人個人の初期条件によって有利不利が当然あるはずで、例えば音楽に個人の初期条件、つまり才能や趣味が最も適しているにもかかわらず、環境の初期条件が全くそれにそぐわない場合、つまり経済的に不利であったり、情報の少ない地方出身であったり、教師が不在であったり、切磋琢磨する友人が不在であったり、アンサンブルを組もうにもメンバーがそろわなかったりといった事情が重なってしまった場合、そもそもクリエイトしようという意思が自己の内的生活においてすら持ち上がらないのではないか、ということである。特に、共にクリエイトする友人の存在はきわめて重要なのではないか。

仮に思考実験として、クリエイターになれるかなれないかは完全に先天的初期条件に依存する、と仮定してみよう。そうするとクリエイターになりたいという欲望だけはあるのに実際にはクリエイターには決してなれない、という不幸な人間が存在してしまうことになる。そのような人間の不幸を取り除く方法は一つ、クリエイターになれないという事実を受け入れることなのであるが、そうするとこれは文字通りの身分の固定制をしか意味しなくなってしまう。

蒙昧から脱しようという意志が少しでもある人間ならば、身分の固定制だけは絶対に廃止することに賛同せねばならないので、我々は当然「クリエイター/非クリエイター」という身分制の問題についてもこれを廃止せねばならないことはあきらかであり、だとすれば我々が目指すべきなのは、どんな人間でもごく少数の例外をのぞいて後天的にクリエイターになることは可能である、という命題を証明することなのだが、これを証明することの困難さがいま私が考えていることの内容である。

クリエイターには一般人からかけ離れたものすごい情熱と才能がある! というような蒙昧な信仰は、私は断じて持たないが、しかし私の今まで接してきた文化的な人間の大半が、実際にクリエイトするための行動力を持続的に発揮してきたわけでもない。

だからと言って私は、クリエイトする行為は実質的に一部の限られた人間にだけ行いうるのだとも思わない。クリエイトする行為は、全ての文化的な人間が、水を飲むようにして日常的に行うべきことだと思っている。文化、とはそもそもそのようなものであり、表象文化のみがロマン主義に征服されていなければならない理由などないはずだ。世の全ての読書家が、同時に著述家でもあるような世の中であるべきだ。

ではなぜ表象媒体が関わる文化においてロマン主義が跋扈しているのか。おそらく表象媒体が物理的な形態をとって存在し、それが市場において交換されて流通するという事情があるからだと思われる。市場は、数多く流通するタイトルによって最大限に活性化するので、一つのタイトルをできるだけ量産しようとする。量産することによって一個あたりのあらゆるコストは減り続け、それは同時に利益の増大を意味する。ロマン主義とエンタメ資本主義は大変都合よく手を結ぶことができるのだ。もうね、絶望しかないよ。それもこれも、全ては憲法九条が原因だと思っています。

しかしできることなら憲法九条を改正するよりももっと穏便な方法で日本の文化を変えたいものだ。特にクリエイターの身分制が改革されることを私は願う。この身分制は明らかに文化の停滞をもたらす。この身分制を打破するためには、そもそもクリエイトするということは一体どういうことなのか、何故人間はクリエイトするのか、ということが厳密に問われねばならないだろう。