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hkmaroのブログ

読書の感想など

『消えちゃえばいいのに』和智正喜 感想

消えちゃえばいいのに (富士見ファンタジア文庫)

消えちゃえばいいのに (富士見ファンタジア文庫)

撲殺、刺殺、斬殺、毒殺、薬殺、銃殺、絞殺、殴殺…数えあげたら、キリが無いほどに人が人を殺す方法は存在する。この世界は死であふれている。でもそれは僕の知る世界とは違うセカイの話。そう思っていた…。「好きです」「好きだよ」「好きだって」「好きなの」四人の女の子に告白された、あの日からすべてが変わってしまった。突如、現れた死神の少女モルは告げる。「僕のために、百人が殺される」って。そんなことを言われても高校生の僕に出来ることなんて、とりあえず女の子たちに何て返事をするか考えることぐらいじゃないのかな。ファンタジア文庫、最大の問題作登場。

上記のあらすじだけ読むとまた西尾のパクリかいい加減にしろよという気持ちになりそうだが、意外にも調べてみると作者は1964年生まれだった。

私は、ライトノベルは全世界のあらゆる種類の小説を見渡しても稀有なくらいに読者を読書へと駆り立てる要素、通俗的な言葉で言えば「リーダビリティ」を技術的に追求した小説ジャンルだと思う。ライトノベルは、なりふり構わずにあらゆる手段で読者の手にページをめくらせようとする。改行に次ぐ改行、没個性的な主人公、主人公に必ず好意をよせる美少女達、美少女達のちょっとエッチなイラスト、難しい言葉を極力排し、文学的比喩表現よりも一度で意味をとれる表現を重視し、それにも関わらずもっと重要なのはパロディ表現だったりする。あらゆる要素が読者に続きを読みたいと思わせるために奉仕させられている。

このことは商業出版物全体に言えることとは限らない。文章の芸術的な美しさが必然的に難解さを要求することもある。政治や社会全般の評論やルポルタージュが、簡明さを重視しては真実にせまれなくなることもある。小説に限ったところで同様で、諸ジャンルごとに読者に頭を使わせる要素というものが少なからずあるのが普通である。純文学はもちろんのこと、SFやミステリもジャンル固有の難解さがある。

ライトノベルにはそのような特徴は少ない。このことは、ライトノベルがそもそも中高生向けに作られているという事情も理由の一つとしてありはするだろうが、しかし二十代三十代向けのライトノベルもこの世に存在するからには、読者の年齢だけが難解さを拒絶するというのはあてはまらない。だから私は、ライトノベルはその本質として「リーダビリティ」の追求をしているのだと言えると思う。

さて『消えちゃえばいいのに』だが、この小説は確かに読みやすいといえば読みやすい。あかほりさとるなみの改行、というか、西尾維新ばりの白さである。まるで詩集。いや、詩集だったらどんなに良かったか。しかしこの白さが「リーダビリティ」なのか。この白さがライトノベルなのか。時として白いライトノベルを破り捨てたくなるのはなぜか。それはそのラノベが白いからに他ならないのではないか。白いから損をしたとか、白くて不安になるからとか、色々理由はあるが、最も大きいのはその白さ・空隙を埋めるように作者のオナニーが充満しているからではないか。

他人のオナニーは普通見せられても気持ち悪いものである。だが例外的にすごいオナニーというものも存在する。エヴァの監督が自分で言っていたが、彼はエヴァですごいオナニーをした。エヴァをみたオタクたちはそのオナニーにかぶれた。感染した。すごいオナニーとは、そのような感染力を持つものだ。

『消えちゃえばいいのに』のあらすじをみると西尾維新を思い出すということや、その西尾維新の小説が白いということも既に述べた。西尾維新のオナニーはどうか。間違いなく感染力を持っている。後続の日日日だとか入間人間だとかがどうしようもなくそれを証明している。西尾維新のオナニーは、なにはともあれ「すごいオナニー」だったのだと認めねばならないようだ。

じゃあ『消えちゃえばいいのに』はどうなのか。すごいオナニーなのか。キモいだけのオナニーなのか。読めばわかる。私にはキモかったが、もしこの様式が別の作家の手で反復されるのならば歴史が「すごいオナニー」認定を下すだろう。だが、この様式を判然とその他の(特に西尾フォロワーの)様式と区別するほどの特異性、言い換えればキチガイ性を、今作が持ち合わせていないのは明らかなように思える。

仮に私の判断が正しかったとして、キモいだけのオナニーが出版されることの罪を説明するとするならば、それは、その程度のオナニーが商業的な価値を持つのだと読者に誤解されてしまうことである。そしてその誤解は、ゴミ同然のオナニーを跋扈させることにつながる。これは大変な罪なのだ。オナニーをゴミでなくするにはどうすればいいのか。すごいオナニーをするか、「リーダビリティ」の技術を身につけるのか、どちらかである。西尾維新ですら、いつまでもすごいオナニー一本槍で通してきたわけではない。明らかに最近のシリーズではラブコメ的な方法論を採用し豚のニーズに応えているように見受けられる。つまり、技術を身につけている。

技術を否定すれば蒙昧への逆戻り、ロマン主義への逆戻り、作家と読者の身分制が待っている。革命力0。