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hkmaroのブログ

読書の感想など

『ユートピアだより』ウィリアム・モリス

ユートピアだより (岩波文庫 白 201-1)

ユートピアだより (岩波文庫 白 201-1)

フロイトは「文化への不満」で人間と文化が克服すべき三つのことを挙げた。ひとつは自然の恐怖。ひとつは人間の生命の限界。最後が、文化が人間に強いる限界である。一つ目と二つ目はこれから先の世の中で技術と科学が少しずつ克服していくだろう。しかし最後の一つは、政治の知恵や宗教の知恵や心理学の知恵がその解決に大きく奉仕するだろう。もっとも、フロイトは文化という言葉と文明という言葉を全く区別しなかったから、彼にとっては上記三つの解決すべき問題は、同じように技術、科学、政治、宗教、そして心理学の知恵によって解決されると思われていたのかもしれない。

ユートピアという主題が最初に問題にするのは三つ目、文化に内在する限界である。特に権力の偏りを廃止することの可否が、ユートピアを描くことによって問われる。ユートピア物語は一つの思考実験であり、ユートピア作家自身が、彼が描いたままのユートピアを実現したいと必ずしも思っているわけではない。当たり前のことだが、このことはユートピアをバカにするバカどもの頭の中で混同されている。この混同が、バカのバカたる所以である。

ユートピアものの物語においては貨幣が廃止される。貨幣の蓄積は権力の偏りを生むからだ。同じ理由で、私有財産制も廃止される。このことは、ユートピア物語が歴史的に社会主義と深いかかわりを持ってきたのであって、一つの紋切り型に過ぎない、というような批判によっては真に批判することはできない。なぜなら社会主義の固定観念が存在していなかったトマス・モアの時代に最初に構想されたユートピアは、既に貨幣経済と私有財産制を放棄していたからである。

とはいえユートピア物語にとっては、やはり貨幣経済と私有財産制の打倒はある種の共通前提である。この二つを廃棄することがユートピア成立の条件であって、ユートピア作家の思想的仕事はここから始まる。つまり、対価の発生しなくなった労働は、ではなぜ行われるのか、ということが描かれねばならないのである。

労働の必要性を問うた場合に、ユートピアは自然の恐怖と、人間の生命の限界を要素として考慮しなければならなくなる。貨幣経済と私有財産制を廃止して、権力の偏りはなくなったとする。本当は宗教の廃止と科学の台頭もこれに加えたいところだが、宗教と科学的世界観の関係はユートピア物語それぞれによっても扱いがバラバラであるように見受けられるし、科学と言う名の宗教、という問題もある。ともかく、個々人の権力がとりあえず平等になったと仮定して、その上で幸福に人間が生きていくための諸制度が考察されねばならない。

トマス・モアのユートピアにおいては、労働は各自に六時間割り振られていて、国民たちは労働から解放された時間を知的な活動に当てていた。

空いている時間、つまり、労働・睡眠・食事などの合間の時間は各人が好きなようにつかっていいことになっている。といっても何もこの時間を乱痴気騒ぎやぶらぶらしてすごしてよいという意味ではない。むしろ、せっかく各自の職務から解放された貴重な時間である、自分の好きな何かほかの有益な知識の習得にこの貴重な時間を最も有効に用いるようにとの意味なのである。(『ユートピア』トマス・モア、岩波文庫、太字強調は引用者による)

言い換えれば、労働と自己活動が峻別されていたのである。労働は未だやむを得ずするものであって、もし労働せずに環境が整い、苦痛なく生きていくことができたならば、恐らくユートピアの国民は古代ギリシャ・ローマの自由人たちのように、もっぱら知的な活動を行ったり、肉体の鍛錬に励んだりしたことだろう。だが、モアはそのような技術的臨界点は想定しなかった。この点が、現代のユートピア物語との違いだろう。現代のユートピア作家の誰もが、恐らく自動機械の発展に伴う、労働のほぼ全面的な禁止を夢想するだろう。人間がなすべきことが自己活動のみであるような未来に想いを馳せるだろう。

ウィリアム・モリスのユートピアもやはりこの技術的臨界点を想定した。だがモリスの時代にはむしろ技術に対する憎悪があったのではないか。技術によって労働が楽になる、という想像は全く現実に裏切られており、工場における奴隷的労働は技術の発展こそがもたらしたと思われていたのではないだろうか。

この意味で、モリスが労働と自己活動の同一化という解を導き出したのには必然性があった。

「それはこういうことです、つまり、今ではもう一切の仕事が楽しいものとなっていますが、それは、仕事をしている際、それによって名誉や富において得るところがあるだろうという期待が持てるからです。そしてそういう期待が、たとえ仕事そのものが楽しくない場合にも楽しい興奮を惹き起すからです。それともまた、機械的な仕事といわれるものの場合と同じく、仕事がただもう楽しい習性となってしまったからです。また最後には(われわれの仕事の大部分がこの種類に属していますが)、仕事そのものの中に自覚された感覚的な喜びがあるからです。つまり、芸術家として仕事をしているのですね。」(『ユートピアだより』ウィリアム・モリス岩波文庫、太字強調は引用者による)

上記のような認識においては、労働はもはや苦痛ではない。労働そのものが芸術的行為であり、自己活動である。

だが、この解決法が解決法として果たして使用できるのかどうかについては疑問が残る。要するに労働を楽しいと思えるように、あるいは労働を自己活動だと思えるように、時間をかけて人間の習性を作り変えていくということであって、同じことを現代の資本が我々大衆に行おうとした場合、我々はそれを嬉々として受け入れるべきなのだろうか。例えば非人間的な重労働のことを、とても楽しい遊びだと錯覚してしまうような作用を持つ薬物が開発されたと仮定しよう。確かに薬を飲めば楽しく仕事をすることができるが、実際には酷い搾取が行われているのだとしよう。一日十六時間働かされるが、働かされている間はトリップしていてとても楽しくなれるような薬をもらえる仕事があったとするならば、実際にはラリっているだけで生活できる。果たして、それを知りながら我々は働きたいと思うのだろうか。恐らく人生に絶望しきった人はその条件でも働こうと思うだろうし、それでも大抵の人は嫌だと思うだろうが、労働と自己活動の同一化という解は、このような労働のあり方と紙一重なのではないかという疑問が私の頭には浮かぶ。もちろん、これが極論であり、空想じみた仮定だということを考えれば、適正な労働条件で、各々が自分の労働を自己活動だと主観的に思えれば、これもアリなのではないかと思えなくもない。だが、ボケた老人のクソを処理することは芸術だろうか。それが楽しい仕事だろうか。ゴミ処理の仕事はどうか。死刑執行人の仕事は。特殊清掃員は。全然自己活動ではないし楽しくもないけれど、それでも崇高と言える仕事もやっぱりあるのではないか。それをいずれは放棄すべきと考えるにしろ、いくら時代が下ってもそうした仕事は残ると考えるにしろ、この点における思索については欠けるところがあると認めねばならない。

が、自動機械による労働の廃止という困難な道とは異なる、労働と自己活動の同一化という可能性を考察した点においてはやはり大きな価値がある。偉大と言ってもよい。文化と労働の関係を考察するにあたっては大きな参照点となるだろうと思われる。革命力76。