hkmaroのブログ

読書の感想など

ホッピーを戒めるの記

昨日居酒屋に行った。ホッピーを飲んだ。一瞬で四時間が過ぎた。
電車に乗って目が覚めたら本川越だった。
タクシーに乗った。酔っていたので冷静な判断力は働かなかった。新所沢まで、二、三千円で着くだろうなどと思っていた。しかし4,850円請求された。

なぜ私が4,850円もの大金をタクシーの運転手に払わなければならなかったのかというと、明白にホッピーを飲んだからである。ホッピーさえ飲まなければ、本川越まで行くこともなかっただろうし、よしんば寝過ごしたとしても、マンガ喫茶に泊まるというリーズナブルな選択をしたことだろう。ホッピーはいとも安価に、そして恐るべきスピードで、人間の判断力を停止させる。人間性を破壊する。こう言ってよければ、理性を損なわせる。深遠で崇高な人間の精神と対置されるべきものは、ホッピーなのである。

それがわかっていながらも、人間はまた来週酒を飲む。ホッピーを飲む。一週間でホッピーの恐ろしさを忘れてしまうのだろうか。違うのだ。ホッピーを飲むことにより訪れた恐怖の体験と、ホッピーを飲むこと自体の快楽とが、ホッピー飲みの頭の中で切り離されてるのだ。ホッピーは美味しく、安く、すぐ酔えて、いい気持ちになれる。最高の酒だ。しかしその反面、美味しく、安く、すぐ酔えるからこそ人間性を破壊する。

ホッピーが危険な飲み物であることを知っていながら人は、「ついつい飲み過ぎて」と弁解するが、しかし本当は単に飲み過ぎただけなのかもしれない。つまり、「ついつい」というのは言い訳に過ぎないのかもしれない。人は、純粋に飲み過ぎたいのかもしれない。酩酊したいのかもしれない。人間性をかなぐり捨ててしまいたいのかもしれない。ゲロまみれになってのたうち回り、女性に暴言を吐いたりセクハラをしたり、喧嘩を売ったり物を壊したりしたいのかもしれない。ただそれをするためだけにホッピーに次ぐホッピーを浴びるのかもしれない。

一瞬で四時間が過ぎることの不思議。一瞬と四時間が同じになる。ホッピーが破壊するのは理性だけではないようだ。時間認識能力までも奪ってしまう。だが、時間認識が歪められることは、人間の悲願の一部をも達成させうるのではないか。人間は様々に形を変えて、永遠の命を求めてきた。たとえ直接に永遠の命が言及されずとも、「健康に長生きしたい」だとか、「天国で見守っている」だとかの言葉は、永遠の命のバリエーションである。人間は基本的に、長く長く生きていたいと思っている。

しかしホッピーは四時間を一瞬にしてしまう。逆に言えば一瞬が四時間になる。この悪魔的な飲み物が見せてくれる夢は、永遠の命なのかもしれない。飲んで飲んで飲みまくれば、一瞬が永遠になるのかもしれない。人間の時間認識を司る機関を徹底的に麻痺させてしまえば、それも不可能ではないのではないか。重要なのは実際に永遠を手にすることなのではなくて、永遠を知覚することなのではないか。

永遠と一瞬とが同じものであると考えた人は沢山いる。スピノザやニュートンやカントも、もしかしたらそういう世界観を持っていた人たちなのかもしれない。もちろん現代の物理学からみれば、神の一突きによってこの世界が決定されているなどという考え方は安易なのだろうが、しかし決定論が正当化するのは人間の諦めの感情であり、同時に永遠への夢想と飛躍である。我々日本人が誇る世界文学の書き手、村上春樹も『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』で一瞬の内にある永遠の世界を書いた。

しかし、だからと言ってこの日記を書いている今は、ホッピーを飲んでいる間にわずかながらにしろ近づいた永遠への知覚とその記憶はもはやない。そういう「今」からふりかえる限り、私は理性あるうちにホッピーを遠ざけねばならないと思う。悪魔の酒であると同時に、永遠の生命をももたらしうる神の酒、ホッピーに、しばし別れを告げねばならない。なぜなら幾重もの有限性にしばられた人間の生活が(これをもし生活と呼んでいいとするならば)あるからだ。まだ永遠を求めるには少し早い。