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hkmaroのブログ

読書の感想など

アドルノは『否定弁証法』で、概念というそれ自体で限界を持つ方法でもって行われる哲学は、概念のみを用いながらにして非概念的な対象を表現することに意味がある、というようなことを言っているのだが、そうすると必然的に語り口みたいなものが重要になる。概念の運用だけでは非概念的なものについて言及することは不可能なわけだから、色々と言い方を変えてなんとかそれを表現しようとしてみる活動こそが哲学だということになる。哲学的な言説の滑稽・無意味に思えるほどの難解さはここに由来していると言っても良さそうな気がする。

ここでいう非概念的なものとは、概念の対象になりえないようなもののことだ。概念の対象になりえないものといっても、いくつか種類が考えられるように思う。ひとつは、言葉の限界が取りざたされる場合によく言われる、言葉の抽象性が取りこぼしてしまう指示対象の個別具体性である。例えば「りんご」という言葉は、この世に無数に存在する個別のりんごを区別しない。それを区別しようとしたら「りんご」という言葉に多くの説明を付け加えねばならない。しかも、それで区別できたからといって個々のりんごの諸特徴までを表現できるわけではない。目で見た「このりんご」を、それを見たことがない他人の頭に寸分たがわない形で再現せしめるほどの説明は、言語によっては成しえない。

それに対していま一つの非概念的なものは、そもそも人間によっては知覚されないようなものである。こちらの領域に関しては人間がそれを調べるための道具を多く発明したことによって徐々に克服され続けているとは思うが、こういう領域が存在しなくなったと断定できるような地平に人間が立つことは原理的に不可能なのではないかと思われる。なぜなら、例えば人類が、もはや非常にすぐれた道具に囲まれて、あらゆる現象を観測できる、と考えるようになったとしても、その認識は自分が観測できないものを「存在しない」と思い込む誤謬に由来しているのだ、という批判を否定しきれないからだ。例えば大昔の人間にとっては、人間の可聴領域を超えたいわゆる超音波などは存在しないと思われていただろう。

哲学が扱いうるのは、前者の意味での非概念的なものだと思われる。科学と哲学が分離した現代では、後者の領域はもっぱら科学の領域である。そうであれば、哲学はいかに表象するかを考える芸術的行為だということにならないだろうか。哲学は、絵画や写真や音楽や映画等などの、必ずしも言語表現に頼らない表象媒体が得意とするような、直接的でイメージ的な領域を、言語表現内にとどまったままで表現しようとする活動だということにならないだろうか。

だが恐らくそれもまた少し違う。絵画と音楽が、同じくイメージ的な芸術であるにも関わらず、全く違った種類の人間の感覚器官によって知覚される、互いに異なる位相の芸術であるように、哲学も哲学以外の表象媒体から区別されるべき位相に属していると考えることができる。哲学は、優れた絵画がそれを見るものに与える諸感覚とはまた違う感動を人に与えるものに必然的にならざるを得ない。つまり、哲学においては、個々の哲学的言説が、芸術における個々の作品と同じ機能を有していると考えることが可能である。哲学が教養として機能してきたことの主な理由はここにあると思われる。芸術の無駄な高価さが、それを愛し所有する人の裕福さ、つまり社会的地位の象徴として機能することに由来しているのと同じように、エリート達が好んで「何の役にも立たない」哲学に都合よく向ける媚態は、哲学がそれを愛し所有する人の知的余裕、つまりは頭の良さのシンボルとして機能することに由来しているのではないだろうか。

現代においては、実証性に乏しい哲学という領域が、もはや真理の探究に関しては無力に近いということが半ば常識となっているにもかかわらず、未だに「学問」として大学に残っているのは、哲学の持つ象徴的価値がとても高いからだと私は思う。つまり、今の世の中わざわざ哲学者を気取る人間は、知的なイメージだけを楽に身につけたいと思う怠惰な人間、と言うのが言い過ぎであれば、少なくとも真理の探究には背を向けた人間であって、知性とはほど遠い存在なのだと仮定することができる。現代なお哲学者だと認めるに足る哲学者とは、彼自身が道楽としての哲学を認め、哲学的思索から得られる快楽をこそ哲学の中心的価値だと認めるような哲学者だけである。哲学的思索が、一種の快楽だと認めている非専門的哲学者のことを、私はもはや怠惰だとは思わない。

ところで、哲学と、小説や詩などの言語芸術との区別はいかにしてなされるのだろうか。小説の芸術としての価値は、物語の筋と、文体との両側面があるとよく言われる。詩も概ね同様で、詩の場合はこれに加えて朗読した際の音としての美しさも芸術的価値として考慮に入れて間違いではないだろう。しかし、これらの要素は哲学の場合も大なり小なり当てはまることであって、言語による表現という形式上の同一性から、哲学とその他の言語芸術を区別することは厳密には不可能である。ただ、哲学以外の言語芸術が、空想という行為と深いかかわりを持っていることは重要で、小説世界や詩世界が現実世界から離れた自立的世界を扱いうるということには、注目しておいてもよいだろう。とはいえ哲学的思索が空想と無縁であるとは言い切れず、哲学にもやはり哲学的空想というものを仮定することは不可能ではない。例えば、哲学の言葉ではないが、「近代以前に子供は存在しなかった」というような言説は、もっぱら概念による世界の読み替えの行為であり、非常に哲学的な言い方である。こうした思索のことを哲学的な空想と呼んでみても良いのではないかと、私は思う。