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hkmaroのブログ

読書の感想など

創作の技術の構想

どうやったら面白い物語を作れるのか、という問題に対して、技術的な答えが出せたとしても、じゃあなぜその技術によって作られた物語が面白く感じられるのか、という疑問に対してははっきりとした答えは出せない。「その物語が読者あるいは作家の願望充足を助けるからだ」と言うことはできるが、じゃあなんで願望充足を助けるのだ、という疑問には答えたことにならない。しかしながら創作術のマニュアルが確立されることのメリットは、作家であることと読者でしかないことの間に横たわる社会的地位の断絶が、技術の共有によって幾分か取り除かれ得ることである。これは、何故? という問題の解決よりも緊急性を持つ。何故腹が減るのか? を考える前にメシを食わないと人間は死ぬ。大塚英志はマーケッターとして評論を書き始めた頃から、物語の生産者と消費者の役目が最終的に同じ層によって担われていく未来を予想していたし、それを具体的には同人誌即売会にみていた訳なのだが、近年の物語の創作を承認欲求と切り離そうとしているらしい彼の創作ワークショップはその過去の発言と明らかに地続きの領域を扱っている。だから大塚英志は今現在「芸術工学」の博士なのであろう。

創作の技術が一部の者に占有されている社会では、その創作者や創作物に神懸かり的な天才性を人びとは見いだす。作家は特別な才能を持つ偉人であり、額に汗して働くしか能のない労働者や、労働者を搾取することばかり考えている資本家たちとは根本的に精神の構造が違うのだと思われている。だがその違いは実は特別な才能によるものではなくて、単に特殊な技術を知っているか知らないかの違いでしかなかったとしたらどうなるだろうか。おそらく優れた作品を作ろうとするクリエイティブな活動は、社会全体で行われる共同研究的な運動へと変化するであろう。もちろんだからといって個人の枠組みが閑却されるわけではない。やはり個人個人の人間性というものはあるので、クズが書いた小説や物語はそもそもクズでしかなかろうし、クズの創作に関しては創作物の評価以前に人間性の評価によって創作物の公表を全面的に禁ぜられるべきである。しかしながら、人間性が創作行為の才能であるとか創作物の評価とほぼイコールで結ばれてしまうのはおかしい。というよりも、創作物から逆算して作家の人間性が凡俗からかけ離れて優れた物だと評価されてしまうのがダメである。

では具体的にはどんな技術を身につければ面白い話を書けるようになるのだろうか。昔大塚英志が創作技術を教える連載企画かなんかから出た小説を角川スニーカー文庫から出していたが超絶クソだったことを覚えている。「芸術工学」の専門家が認めた小説にしたところでこの程度なのだから、おそらく創作の技術は未だ確立されていないと思われる。現在はその理念が何人かの人により夢見られている段階であり、実際の創作技術は理論化されていないと言って差し支えなかろう。もしくは企業秘密(何しろ「技術」なのだから)として極力公表されないだけかもしれない。

もちろんその技術は時代と場所によって変化するだろう。人びとが何を面白いと思うのか、換言すればどのような表象によって人びとの願望は充足するのか、これが各々の所属する社会の文化に強く影響を受けるということは自明である。さしあたって我々は当然のことながら現代ニッポンに照準を合わせて考えていくほかあり得ない。

願望充足の要素が社会相関物であるということは、この謎を解くためには調査が必要だということになるだろう。つまり、個々の物語について、著者や読者に対して「どんなところを面白いと感じますか?」と訪ねて回らなければならないのではないか、と素朴には思いつく。もちろんこの方法はそれ自体非常に重要だと思うが、現実的には労力がかかりすぎる。それに、読者がいかほど物語のプロットや面白さの核を意識して物語に触れているのかについてはかなり疑問の余地があるし、また作者にしたところで自分の書いた物語のどの部分が読者にウケているのかについて完全に誤謬を免れているわけでもなかろう。

ここで私は三島由紀夫の考案した文化意志という概念を用いてみようと思う。文化意志を持つ作品と持たない作品の違いは何か。それは単純に、伝播していく力の有無による。多数の読者に読まれていても、その影響が次代の作家たちへと受け継がれなければ文化意志としては認められないし、少数の読者しか持たない作品であっても他の作家たちへの影響が莫大であれば、これは十分に文化意志を持つと認めて差し支えない。文化意志を持つということは感染力を持つということであり、他人をして模倣せしめるほどの引力を備えていると見て構わないと言えるから、多数の作品に感染していることが発見される要素ほど著者及び読者の願望充足を助けているのだと考えて、さしあたり間違いではないだろう。

もちろん、創作物における願望充足の目的は、あからさまにそれとわかるように書かれるわけではない。この点に関しては私は「詩人と空想すること」におけるフロイトの考えを支持する。例えばライトノベルのラブコメでは主人公は美少女たちと一緒に嬉し恥ずかしでお色気的な情況に陥るのが常なわけだが、このお色気的な要素が読者達に求められて挿入されているのは明らかなのに、エロのことしか頭にないような主人公はたいてい忌避されるか、もしくは真面目な場面では真面目になる、つまり「やるときはやる」ような性格として設定されることが殆どであって、完全に野獣のような性格をした邪悪な主人公は基本的に登場しない。「俺が望んでエロ的な情況に陥っているわけではないのだ」という言い訳が必要なのである。このような物語展開の類型を、オタク達はラッキースケベと呼ぶことがある。ラッキー、つまり自分の意志と無関係に降ってくるエロ的情況こそがオタク達に求められていて、事実ラブコメの定型パターンとして固有の名前をつけられるほどに定着しているのである。ラノベの読者達が他ならぬ嬉し恥ずかしなエロ要素に惹かれてライトノベルを買うことがあるということは、読者自身が少し胸に手を当ててみればたちどころに理解できることなのだ。

この「言い訳」と「願望」は、『ワールズエンド・ガールフレンド』(荒川工ガガガ文庫)の解説における田中ロミオの「ノーマルモード」と「イージーモード」を持ち出すことによって言い換えることも不可能ではないと私は考える。一般にライトノベルにおいては主人公達の環境が「イージーモード」に設定されていると田中は言ったわけなのだが、しかし実際にいかにもイージーモードで書かれていそうなラブコメを読んでみると、そこには建前としてはノーマルモードを装うという様式が広く確認されるのである。例えば、『中の下!』(富士見ファンタジア文庫、長岡マキ子)というラブコメでは主人公はイージーモード的な世界観を最初は生きていて、自分のことを超絶イケメンだと信じ込んでいるのだが、そこにお前は「中の下」ランクだという厳しい診断を下されることによって、物語は建前上のノーマルモードを仮構する。『はがない』をはじめとする、最近人気の<ダメ美少女×ぼっち主人公>ものの残念系ラブコメも、主人公達の「友達の無さ」「残念さ」が建前上のノーマルモードを形成し、その庇護の下で読者たちは安心してイージーモードに耽る。おそらくこのような仕組みは様々に形を変えて、あらゆるエンタメ小説に見いだすことができるだろう。例えば普通の恋愛小説である『タイニー・タイニー・ハッピー』(角川文庫、飛鳥井千砂)においても、女の醜さを女主人公達自身で否定し、そういう建前を築いたあとで「世間一般の女ほど醜くない」という言い訳とともに女として恋愛にハマるという構造がある。

ラッキースケベに関する、比較的簡単に見いだすことのできる「言い訳」と、それによって隠蔽されている本来満たされるべき目的であるところの「願望」以外にも、おそらく多数の要素が面白さの核およびそれに準ずる成分として一つの物語の中に織り込まれているはずである。それら一つ一つを抽出して理解することによって、新しい物語を創作するときに、その諸要素を選別し、うまい組み合わせを考案し、まったく独自の物語であるかのように創作することが可能になるだろう。今現在の作家達が無自覚的にか企業秘密としてか占有しているこの技術を、我々大衆が身につけることによって、作家の天才性という迷信を打破することが可能になるだろう。それだけでなく、読者の高度な読書を可能にし、作家達にさらなる厳しい仕事を要求することが日常茶飯になるだろう。言い換えれば、文化がますます豊かになっていくだろう。

近々具体的に特定の小説のプロット分析をやってみたいと思う。