hkmaroのブログ

読書の感想など

フロイトの著作集の三巻を読んでる。早稲田の谷書房で見つけた。1,000円。安い。ネット相場の大体半分くらいだった。フレドリック・ジェイムソンの『未来の考古学』を読む必要から、こうした本来の自分の関心領域の対象外にある本を最近読んでいる。ジェイムソンはマジですごい。なんかすごいこと言ってるのに、結局何も言っていないというケムに巻かれた感がハンパ無い。「Aという考えはBという思想によって無効化したかに見えたがAが完全に間違いだとも言い切れないように思う、さしあたって我々はその問題を誰々(SF作家)の作品に見ていくことにしよう」こういう調子で話が進んでいき、読んでいると結局作家や小説の話を延々としているだけで、そもそもの議題には何らはっきりとした結論は下されていない。いや、私がバカで読み取れていないだけなのかもしれないが、私にはそう読める。しかしジェイムソンの文章に出て来るのは人文系の深い知識と、アウエルバッハ直伝のフィロロジスト的な精神であり、読むのにとても労力が要るのだが楽しい。この本は読むことがそれ自体で快楽であって、快楽の質が違うだけで私にとってラノベを読むのと機能的にはそう変わらない。この快楽をより味わうために、モアの『ユートピア』やフロイトやらレムの『ソラリス』などを読んでいる。2巻が出たら買うつもりだ。クソみたいなSFブックガイドなどを買うよりはこっちを読んだ方がまだSFに対する読書欲が湧く。一級の知性によって編成された書物の共同体を感じ取ることができる。この書物共同体に埋もれたいという欲求を感じる。とにかくゆっくり読むことに価値があるように思える。

フロイトの本は今レオナルド・ダ・ヴィンチの精神分析をやっているくだりである。ダヴィンチは肉体関係を伴わない観念の同性愛者だったということらしいが、フロイトは、同性愛者の特徴は幼児期に母と密着した性愛的な関係を築いたところにある、とかなんとか言っている。これも話半分に聞いておいたほうが良さそうな話だ。しかし、三島由紀夫は同性愛者だったと一般的には思われていて、且つ三島がかなりマザコン的な性質を持っていたという話が伝わっていることを思い出した。だからといって精神分析が妥当だとは思えない。

ところで同書に入っている「詩人と空想すること」という論文があるのだが、これは非常に面白い。フロイトの言っていることが正しいかどうかは保留にしておいたとしても読む価値がある。空想とはつまり作家の書く物語のことであって、これも夢と同じく願望充足である、と仮定してみると色々なことがクリアになってくるように思う。難しい文体も、軽薄な文体も、恋愛を題材にとることも、サスペンスを書くことも、全て何らかの願望充足だと考えると、作家あるいは読者のその願望が透けて見えるようで面白い。もちろんこれは観念上の遊戯であり、あらゆる小説あるいは物語が(小説を書きたいor読みたいという願望以外の)願望充足のためになされるのだということは、もう少し論理的に証明されねばならないと思う。が、田中ロミオのイージーモードの話にもあったように、読者は「娯楽作品の中くらい楽しい気分にひたりたい」のだし、作家だって書く内容が自分の望みと真逆のことだと精神的に苦痛で続かないだろうから、半ば公理としてたてることのできそうな話だ。もちろん小説が娯楽作品であるかどうかは問題にならない。娯楽作品であるか純文学であるかということはフロイトにとって関係がない。なぜなら、純文学のように幻惑的でない内容を持つ小説は、その不快な内容によってこそ巧妙に願望充足を隠しているからである。あからさまな願望充足だとバレないようにして願望充足を果たすことこそが作家の作詩術・詩学だとフロイトは述べている。それに加えて読者をして願望充足していると気付かぬままに願望充足させることも、作家の重要な技術だと付け加えてもそれほど間違ってはいないだろう。

最近はこの作家の技術に興味がある。何故人は小説や物語を面白いと思うのか。なぜ続きを読みたいと思うのか。あるいはなぜつまらないと思うのか。そこに技術的な要素があるとしたら、その技術をさえ身につければ誰でも面白い話を書けるのではないか。というか、私は誰でも書けると信じている。特にエンタメ小説における面白さのエッセンスは、プロットのパターン分析によって抽出することができるのではないかと思う。無意識的にこの抽出をしたオタクたちは、特定のキャラの性格の特徴をツンデレと名付けたりした。このプロットのパターンは、音楽で言えばコード進行になぞらえることができるような何かだろうと思う。この領域における特にエンタメ物語の研究は、少なくとも公表されているものでなおかつ見るに値するものは非常に少なく、皆無といって良いのではないか。