hkmaroのブログ

読書の感想など

精神分析的発想について

夢判断 上 (新潮文庫 フ 7-1)夢判断 下 (新潮文庫 フ 7-2)

最近フロイトの『夢判断』を読んでいる。私は今までフロイトおよび精神分析一般を内心でバカにしてきた。学問的妥当性というか実証性がないにも関わらず、精神分析「家」たちはそれが何か崇高な学問的手法であるかのように振舞っていたからであって、言ってしまえばオカルト臭い上にこじつけじみていて、学問的常識からの精神分析に対するかなり懐疑的で軽蔑をすら含んだまなざしと、精神分析「家」たち自身の自己意識との間に非常に大きな乖離があるように思われ、そこに滑稽さを感じるからだった。

『夢判断』を読んでその認識がなくなったわけではなく、むしろフロイトの夢判断において「何か細長いものは何でもペニスの象徴」あるいは「何か窪んだ形をしたものは何でも女性器の象徴」あるいは「一見そうでないと思えるものこそ性欲の表れ」あるいはナンセンスな駄洒落じみた言葉遊びとでもいえる様な夢判断の紋切りパターンは、フロイトの精神分析に対するステレオタイプな批判、つまり、何でもかんでも性に結び付けすぎてあまりに下品というか、ほとんどエロ雑誌とかスポーツ新聞レベルの下世話な勘繰りスレスレというか、まさにそれそのものだという感想を惹起させる。もちろんフロイト自身は、あくまで人間の無意識的な部分に最も影響を与えるのが性欲だというだけであり、何でも性に結び付けているわけではないし、駄洒落に関しても、人間の無意識を支配しているのは観念の連想関係なのだから似ている言葉を自由連想法で挙げていくのは有効な手法なのだ、と主張している。しかしあまりに人間の願望というもの一般が性欲に還元されてしまっていて、そこにフロイト自身の性欲観、あるいは人間性に対する期待の薄さみたいなものを感じ取らずにはいられない。

だが、フロイト自身は精神分析の手法の「あやしさ」みたいなものを自覚していたのだということは、フロイト自身の本を読んで新たに知った事実だった。

シェルナーの説は、曖昧模糊たる心の中の事柄を感じとる特別の素質を授けられていて、しかも自分の夢をことに注意深く観察した人間が、その夢から得た印象の上にうちたてたような理論なのである。さらにこの理論が取り扱っている問題たるや、人間が幾千年ものあいだこれを謎としながらも、しかし同時にそこに何か深い意味が秘められているにちがいないと考えてきた問題なのであるし、また、科学自身が白状しているように、厳格な科学といえども、一般的な感じとは正反対に、この夢という問題の対象に内容と意味深さを拒否しようと努めた以外には、その解明になんらの寄与をもなしえなかった問題なのである。最後にわれわれは正直にこういっておこうと思う、すなわちわれわれは夢を解明しようとする試みにあたって空想をはたらかせてみることは、どうやら避けがたいことのように思われるということを。神経細胞の空想というようなものもある。上の一三三ページ以下に引用したビンツのごとき、冷静で精密な研究者の意見、すなわち、いかに曙の女神が寝入っている脳皮質の細胞群の上にやってくるかを叙述したあの一箇所のごときは、その空想性において、その――不確実さ加減において、決してシェルナーの夢解釈の試みよりましなものではないのである。(『夢判断 上』新潮文庫高橋義孝訳、151、152ページ、強調は引用者による)

上記引用箇所におけるシェルナーという人物は、フロイトの夢判断に大きな影響を与えた哲学者であり、フロイトに先行して夢の研究をおこなった人物である。対してビンツという科学者の説は、フロイトが同書で引用するところによれば、以下のようである。

「この(麻痺の)状態はしかし曙方において次第々々に終りに近づいてゆく。脳蛋白質の中に集積された疲労素は次第に減少してゆき、次第にその分解度が高くなってゆき、あるいは絶えず活動する血液の循環によって洗い流される。そこここにすでに個々の細胞群が目を覚まして活動しはじめるが、しかし周囲はまだ麻卑状態の中にじっとしている。そのとき、個々の集団の孤立した活動がわれわれの靄のかかった意識の前に現れるが、この活動には他の、連想を支配監督する脳の各部分の統制が欠けている。だからできあがった形象は、近い過去の物質的印象を反映するものが多いが、荒々しく無秩序に入り乱れる。自由になった脳細胞の数は次第に多くなってゆき、夢の荒唐無稽性は次第に少なくなってゆく」(同書、134ページより孫引き、原文の傍点による強調をイタリックに換えた)

そもそも夢という対象を、ひいては無意識という対象を論理的に分析することは不可能なのだ、というあきらめの元であれば、精神分析が一体どのような手法だったのか、そしてなぜ「あやしい」手法が人文諸学の分野に大きく影響を与えたのか、知ることができるように思う。自由連想法という方法は、形象や象徴や言葉の類似性にのみ頼るものなのだが、この類似性のみに頼る推論が誤謬を招くということは、形式論理学をほんの少しでも勉強した人なら知っていることである。ところが文芸批評や文化批評では、この誤謬を恐れずに「メタファー」「アレゴリー」などの言葉を自由に用いて自由に類推し、少しでも似ているもの同士をあたかも同じ性質を持つかのように扱って論述することが数多くある。つまり批評の手法と精神分析の手法はきわめて似ているのである。むしろ精神分析は批評の類推の自由度を、象徴という概念を用いることによって広めたのではないかと考えうる。精神分析における象徴とは、上にも述べたが、細長い物をすぐにペニスだといったり、窪んだ構造を持つものや箱などをすぐに女性器の象徴などというように、個人個人に相異なる無意識の条件を超えて、社会的あるいは文化的に共有された連想関係である。人間の表象の中に、精神分析によって判明した類型的な象徴を発見することによって、文学作品や芸術作品に秘められた無意識を暴くことができるのでは? などという仮説は、チンピラ人文学者が考えそうなことである。

とはいえ私も、『夢判断』を読んで、夢を分析する方法は現代の物語メディアを分析するのに役立つと考えている。夢判断の妥当性は脇に置いておくとして、それを援用してゴミみたいなエンタメを、幼児的願望充足の表れ、無意識にペニスや女性器を欲している動物的な欲求の表れだとして攻撃することは、文化産業の淘汰に一役買うだろうと思うからである。つまり、これらの指摘が正しかろうと間違っていようと、あまりにもクズである諸タイトルに渇を入れる方法として用いることはできると思う。それは精神分析がむしろエロ雑誌レベルのしょうもない欲求のかたまりへと人間の精神を解体してしまうベクトルを持った手法だからこそ、なおさら効果があるだろう。