hkmaroのブログ

読書の感想など

昨日は映画鑑賞会を催した。先輩の案内で横浜のほうのシネマジャックに『CUT』をみにいった。一緒に見たメンバー中二人はたいそうつまらなかったらしいが、私としては、少なくともキチガイじみた反商業主義と非常に単純な話の筋は良いと思った。しかしやはり映画オタクのための映画でしかないところが最もダメなところだろう。ラスト付近で「俺が選んだ映画ベスト100」が始まるところなどは、反商業主義をうたいつつ結局ランキングか、と思わずにはいられない。ランキングとは商業主義が最もその恩恵を受けている権威付け、序列付け、洗脳の手法である。あまりにアレなのでギャグなのかもしれない。しかしパンフレットは買った。監督のキチガイさ加減がいっそうよくわかる。あと「『CUT』引用作品リスト」なるページが付いててビデオ屋や図書館に持っていくのに便利そうだ。

映画鑑賞会の後は酒を飲んだ。いつものようになんかサブカルっぽい話を主にした。飲み屋でする話は、人によって違う。おカネの話をする人たちもあれば、恋愛や結婚の話をする人たちもあれば、人間関係の噂話・悪口をする人たちもあれば、家族の話をする人たちもいる。その中でわれわれはサブカルっぽい話をするグループとして居酒屋内に存在した。とはいえわれわれにとってもカネや恋愛や結婚や噂話・悪口や家族の問題が存在しないわけではないのだから、結局われわれのような人間にとってはカネや恋愛や結婚やその他の通常飲み屋ですると思われるような話題よりも、サブカル方面の話題のほうが親しいわけだ。つまり、映画だの漫画だの音楽だのアニメだのといった子供じみた話題のほうが、飲み屋でするにふさわしい話題なわけだ。飲み屋でするにふさわしい話題とは、ではいったいどのような話題なのか。飲み屋でするんだから、きっと気楽に話せたり、あるいは「無礼講」という言葉が示すように、普段は言えないことを言ったりとか、社会的な秩序をある程度度外視して話したりするような話題だろう。これらをまとめて短絡化して言えば「本音」が居酒屋では出るのだ、ということも不可能ではあるまい。つまり、われわれサブカル人間の「本音」はサブカル関係の言葉なのである。相対的に人生の諸問題はどうでもよくて、カネ、女、家族、そんなことよりサブカルが重要なのである。もちろん、サブカル話のための席、というものもある。同様に、家族一同顔をあわせるための席、というものもあるのだから、どの席でも一様にサブカルの話をするわけではない。だから、一概にサブカル人間だからといってサブカルが「本音」だということにはならないのかもしれない。しかし居酒屋でサブカル話をしてしまうような人の「本音」がサブカルに他ならないことを証明するのは容易い。非サブカル人間のことを思い巡らせてみるだけで足りるからである。非サブカル人間が、仕事と関係のない学生時代の友人たちと会って居酒屋で何をメインに話すだろうか。カネだろうか、結婚の話だろうか、将来の話だろうか、お互いの仕事の話だろうか。しかし決して映画・漫画・音楽・アニメではないであろう。もちろんちょっとくらいはしゃべるかもしれない。だからといってそれが場を盛り上げるために持ち出されるタネを超え出ることはない。
サブカル人間の「本音」がサブカルであるとはいえ、そこから「本音」としてのサブカル話が流通するためにはいくつかのクリアすべき条件がある。その中でも最も大きな障壁のひとつが、ジャンルの問題である。ジャンルが違えば、同じサブカル人間といえども話を通じ合わせることができなくなってしまう。ゆえにサブカル人間はときにサブカル話をするという形式を保つためにのみ自分本来の関心とは外れたところにあるサブカルを消費・鑑賞する場合がある。これがひいてはいわゆる「布教」「貸し交換」などの行為を生む。これらはある強度を持ったコミュニケーションを形成する。そうであるがゆえに、本来サブカル人間であった人が、このコミュニケーションにとりつかれ、自己の本性としてのサブカル消費およびサブカル鑑賞を形式的に消化していくのみになり、サブカル人間同士の小さな共同体内における人間関係の噂話などを、「本音」として居酒屋で流通させてしまうことがある。おそらくそこにはすでにサブカル人間の堕落がある。もちろんサブカル人間同士のコミュニケーションは悪いことではない。むしろサブカル人間は同好の士との交流によって益々サブカル度を成長させる。問題なのは、「サブカル」というある種雲のように存在している「データベース」あるいは「大きな物語」へのアクセスが形式化してしまい、サブカル人間同士の人間関係という卑小な話題が「本音」となることで、このことによってサブカル人間のサブカル度は著しく減る。
結論としては、サブカル人間は本質的に常に孤独でなければならない。サブカル人間はせいぜい一人か二人の「盟友」をのみ持っていれば足りる。それ以上付き合いが増えてサブカル的交流が形式化しだすと、自身のサブカル性が破壊されてしまう。あくまで一個人として雲にアクセスすることが重要である。その結果として自身が雲の一部を形成するようになるのか、それとも個人のままでしかないのかは、また別の問題なのではあるが、たいていカネや女や出世を犠牲にしてサブカル話をしているサブカル人間であるから、気が付けば雲の末端くらいに位置していることはそう珍しい話ではない。このことは浅羽通明の世間論が示すとおりである。