hkmaroのブログ

読書の感想など

切迫性について

本当に当たり前のことを言うようだが、文学とサブカルには別々の良さがある。ここでいう「良い」の基準は当然のことながらこれを書いている私自身が良いと思うかどうか、というだけのことなのだが、多分私以外の人でも文学とサブカルを同時並行的に受容して愛好している人が沢山いると思う。文学には時にサブカル的な要素が一切含まれていないが、それでも面白いし価値があると思えるし、逆にサブカルには文学的要素が一切含まれていない場合も多々あるにも関わらず面白いし価値があると思える。ということは文学とサブカルにはそれぞれ独自の価値があるわけだ。だからサブカル諸作品をまるで文芸批評をするかのようにして批評する言葉はなんかトンチンカンに響くということになるだろうと最近私は思っている。

ところで、私が考える「良い」の基準は、イデオロギーが露呈しているかどうかである。これだけ書くとまさにオカルトという感じだが、つまり作者や読者が自明視している何かが露呈していることが重要だと思う。読んでいて「あっ!」と驚くような内容が書いてあれば、とりあえずこれは良いものだと私は判断する。逆に驚かない内容が書いてあるものが無価値かと言うと、そうとも限らないのだが、しかし良いものに触れる体験は少なくともいつも驚きを伴っている。

だが文学で驚くときとサブカルで驚くときの、我々の(というか私の)受容の仕方がまるで違う。文学で驚くときは、驚いたのちに何かを反省させられるような体験が付随する。言葉で何か感想をまとめようという気になる。まあ、だからといって感想がうまく言えるかというとそうじゃない場合のほうが多いのだが、何かを意識化させられるような経験を得る場合が多い。何を意識化させられているのかと言ったら当然それがイデオロギーなのだが、つまり我々が自明視しているものだと思うのだが、翻ってサブカルで驚く場合は、この点については全く逆で、自意識のような反省的思考がほぼ消滅して没我の状態に陥ることが多い。つまり夢中になって摂取している。中毒のような状態になる。ということはイデオロギーが露呈しないのか、というとそんなことは全然なくて、そのような中毒症状が一時引いたときにふと反省してみると、「こういう作品」でこんなに中毒になってしまう俺、というものがそもそもイデオロギッシュな主体だということがハッキリと露呈してしまう。エヴァのSS読んで「シンジキュン(*´Д`)ハァハァ」という状態になってしまう俺、は、エヴァのSSなど存在を知りもしないような人々と比べてかなり違った価値観を持っているということがハッキリわかってしまう。

だから、文学とサブカルは各々違った方向から我々に驚きを与え、そして違う方法で我々のイデオロギーを露呈させる。だから私は、文学とサブカルに各々違った言葉を紐付けようと思う。文学は反省的である。もちろん、「反省的な文学」というものがそもそも文学の一部でしかないということも事実としてあるとは思うが、とりあえず現代の我々にとって問題となるような文学は常に反省的だと思う。古代の古典を読むにしても、確かにそれが書かれた当時は反省的思考などと無縁に書かれていたのかも知れないが、現代の目からそれを読む我々の視線は必然的に反省的にならざるを得ない。即自的に『古事記』を読むことは端的に無理だ。そして近代以降の文学はもうずっと反省的だ。

それに対してサブカルはほとんど反省的でない代わりに切迫性を持つ。萌え豚が愛好するような豚ラノベであっても、そんな「下らない」豚ラノベがなぜ萌え豚をこんなに引きつけるのかを考えた場合、そこに萌え豚達にとっての切迫性があるからだろうと私は思う。彼らは『インフィニット・ストラトス』とかを読んでほとんど身体的に「も、萌えー!!」と思うのだろう。かく言う私もエヴァのSSを読んで「も、萌えー!!」と身体的に思う。あるいは萌えに限らない。普通切迫性を持つサブカルと言ったら『多重人格探偵サイコ』とか『殺し屋イチ』とか、そういうのを思い浮かべる人が多いと思うけれども、それらはそれらで確かに切迫しているのだ。現代日本を生きる人々の色々な感情を確かに汲み取っていると言えるのだ。それに、だからこそ売れたのだろうと推測できる。

もちろんこのように二元論を作ってみたところで、同時に文学性と切迫性を備えている諸作品は文学にもサブカルにも沢山あって、そういうのが名作だとされているのだろうとは思う。しかし、二重の良さを兼ね備えている作品が沢山あるからこそ、文学性はあっても切迫性を持たない作品を「退屈だ」として切り捨てる態度や、逆に文学性はないが切迫性にはあふれる作品を「低俗だ」と切り捨てる態度が生まれてしまうのではないかと思う。これらの態度は実は混同である。文学にもサブカルにも各々良い点があるのであって、そういう区別がちゃんと出来ていればどっちかを持ち上げてどっちかを否定するというような態度は簡単にはとれないと思う。

で、これらの区別をちゃんと出来ている人というのは本当に少ない。言葉にしたら当たり前のことなのに、態度として実践できている人は本当に少ないのだ。フランス現代思想の言葉でマンガやラノベやエロゲーを分析するのも良いだろう。しかしそれが通用するのはそのラノベやエロゲーがフランス現代思想の諸概念が射程として捉えている範囲に収まるような文学性を持っている場合のみである(もちろん準拠する思想がそもそもサブカルを語っているのであれば話は別だが)。逆に「『罪と罰』のソーニャたん萌えハァハァ」という真逆の視線も無価値だ。源氏物語ライトノベルである! などと宣言する厚顔さには私は吐き気を催す。より正確には、この場合問題なのは、文学作品に切迫性を勝手に見出すことによって自分の愛好するサブカルを文学と同じ地位に置こうとする身振りであり、それはやはり救いがたくゴミである。それをする必要は全く無くサブカルには独自の良い点があるのに、文学の権威を引っ張ってこようとするさもしい精神に我慢がならない(文学作品に勝手に萌えること自体は別に自由だとは思う)。このことはもう結構まえから感じていて、どげんかせんといかん! と勝手に思っている、といっても私が何をやったところでどうにもなりはしないし、私の考えが誤りである可能性もおおいにあるし、もうほんと人生ってままならないことだらけだなあと思っているのだが、何か、なにかしら実践的な行動ができないかと考えていて、色々画策しているけれど実行できるかわからない。