hkmaroのブログ

読書の感想など

メモ:私の文学観と大澤信亮がほんとにすごい記

少し前に円城塔芥川賞を受賞しかけて村上龍に科学的知識が間違っているなどと否定的に評価され結局受賞できなかったことがあったが、これに対する円城塔ファン? の反応として「文学には科学知識の正確さとか二次的だろ」だとか「そもそも円城は専門家だし別に間違ってないし」とかいう反応があって、もちろん芥川賞という狭い範囲に関してはそれは間違ってないというか、村上龍の振る舞いがダメだったというのはあるのだが、しかし円城塔を文学として読んでいる円城塔ファンが、作家が賞をとれたとれないで憤ったりしてるのは(いやもしかしたらしてないのかもしれないが)、現今の民衆の文学観というものをあらわしているような気がする。文学とは権威なのである。何か良いもの、「深い」ものであり、その「深さ」は権威や象徴的価値によって担保される。本来文学者にとって賞がもらえるかどうかとかえらい人に褒めてもらえるかどうかとかいうことは全くどうでも良いことのはずで、結果的にそういうこともあるかもしれない、というだけのものでなければならないはずだ。もちろん昔から王侯貴族に評価されたりパトロンを得たりして書いていたような人もいるだろうとは思うし、近代以前の文学に登場する悲劇の主人公はみんな王侯貴族で、喜劇を演じるのは貧しい階級の人々だった。この、悲劇=貴族/喜劇=民衆という文学の様式と階級の関係について書いたのがエーリッヒ・アウエルバッハの『ミメーシス』で、文学と階級ということがマルクス主義批評的に重要だからアウエルバッハの著作も重要なのだろうが、それはさておき、文学は偉い人・貴族だけのものではないし、小説や詩を書くことで偉い人になれるかどうかということは、本来二義的なおまけみたいなもののはずである。偉い人になりたいのであれば小説や詩を書かず単に官吏や騎士か武士として活躍すればよくて、文学で偉くなろうというのは迂遠な道のりだ。単に偉くなるのではなくて文学で偉くなるのがいいんだ、という価値観もあるかもしれないが、そのような文学はどこまでも王様を賛美する小説や詩にしかならず現代読むにたえる代物ではないだろう。文学は文学であることがやはり第一義なのだと考えるべきであって、階級を上昇するためのツールであるわけがないし、自己自身に象徴的価値を付与するための、平たく言えばハクを付けるためのツールでもない(今はそうなっちゃっているが)。これをさらに推し進めれば、文学にとって読者はどうでもよい。誰がどう読んでどう評価しようが関係ないし、読者がいなくたって書かれるものだ。そういう極限まで自分自身にだけ関心を集中させて書く文学こそが実は読まれ得る文学だ(もちろん読まれないことのほうが多いだろうが)。読まれるとここで言うのは、その中身を読まれるということだ。ノーベル賞作家だから読むのではない、芥川賞作家だから読むのではない、現役女子高生作家だから読むのではない、そういう風に文章を読まずに象徴と触れ合っているだけの胡乱な読者ではない、確かで良質な読者は極めて自己中心的な文学を読む人の中にこそいるだろう。逆に言えば自己中心的な文学を読めるだけの人は必然的に確かな読者でなければならないのだ。自己中心的、とは必ずしもオナニー的に書くということを意味しない。そもそも文字を使って書く時点で完全に自己中心的ということはあり得ない。読者を意識せず書いていても必然的に読者の目線で作者は文章を推敲する。無意識に読者が作者の内面に住んでいる。そうでない場合でも、つまり作者の意識としてはある範囲の読者を想定して書いた場合でも同じことで、「ある範囲の読者」なるものを作者が想定できるということはその範囲が作者の頭の中にあるということなわけだから、その範囲の読者の価値観は作者の頭の中に多少なりとも織り込まれている。単純にウケ狙いの小説を書くからダメだ、それは文学ではない、ということを私は言いたいわけではないのだ。むしろウケをいくら狙おうとも文学は文学であり、逆に全く誰にもウケなくても文学は文学でありうる。あるいは作者本人の意思とは無関係に文学は文学なのかもしれない。そしてそういう読み方も一つの方法として存在している。ただ、最も読者を持つ数が少ないと思われる、自己自身にだけ関心を寄せて読者ウケ全く度外視、という方法で書かれた文学には他の方法で書かれた文学とは違う価値があるのではないかと思う。自分の無意識を意識的に取り出す、書く、ということだ。そんなことが果たして可能なのかどうかはわからないが、自分を規定するさまざまな身体的、文化的、経済的、その他諸々の要素を、無意識的な領域として想定してそこを一つずつほどいていく行為は、じつはその無意識的領域が社会的にある程度共有された部分を多く持つということを明らかにしていくがゆえにもはや自己中心性が転換して高度な社会性になるだろう。この書き方および読み方は、例えばマンガやラノベを文芸批評や社会学などの外部的ディシプリンを使って「分析」して「無意識を暴いた」などと恥知らずにも言ってのける浅薄で皮相的な方法論とは全く違うものだ。むしろマンガやラノベを本当に分析したいのであれば、マンガやラノベに耽溺して内部から読むべきなのだ。もちろんマンガやラノベはそもそも自己中心的に自己にのみ関心を寄せて書かれた文学ではない(場合がほとんである)から、つまり書き手からして自分の無意識をときほぐそうなどとは考えていないであろうから読み手側に困難が伴う。上記のようなことが理由で私は大澤信亮はサブカルより文学、と言っているのではないかと勝手に漠然と推測している。もしそうだったら私が考えていることは大澤が既に全部言っているし、これから私が認識を成長させることもあり得ないだろうからこのブログを書く意味もないのでもう車載動画を見る毎日を過ごして死んでいくことになるだろう。もちろんこのブログの読者などはせいぜい一人か二人である。たまにラノベやらエロゲーやらについて書いたときに三、四人に読まれるだけである。それでも読者であることには違いない。つまり大澤信亮があまりにすごすぎるのでもうブログ書くのやめようかな、どうしようかな、と考えている。