hkmaroのブログ

読書の感想など

日記

昨日もSSの文体について書いたけど、でもよく考えてみたらSSがああいう文体になったのって最近のような気がするな。昔はネットで葉鍵のSSを書いている文学青年というかエロゲー文学青年みたいな人が沢山いたような気がするけれども、彼らのSSっていうのはきちんとした小説であった。ただキャラをありもんの作品から拝借した、普通の二次創作だった。また、彼らは独自の小説サイトを自前で作っていて、そこで原稿を募集したりとかして、作者名なんかも明記して、形式的には既存の小説の書かれ方にかなり近かったのだが、現在のSSは文体からして即物的だし、2ちゃんとかのスレで書かれるし、匿名で書かれる。大昔の詩人のような創作の仕方だ。大昔の詩人は、元ネタを神話にとって二次創作するSS書きみたいなもんで、大昔の詩は作者不明であることが多いし、その詩が残っている理由も共同体内でウケたから、である。詩は共同体が生むものであって、作家個人が生むものではなかった。共同体内の沢山の人々の口に乗って伝播するからこそ詩は名詩として残ったのであった。詩人とはその中でたまたま詩を書いたり詠ったりするのがうまい人、というだけで、現代のクリエーターみたいな特権的でロマン的なポジションにはいなかった。(とものの本には書いてある)

現代みたいにクリエーター様がこんなに偉い時代にあっては、SS書きなどという作業はまことに泥臭くかつ報われない行為である。もちろん2ちゃんの読者は喜んでくれる。しかし名前は残らないし、権威は誰も評価してくれない。それでも書かれる、書く、ということは、それだけのものがSSにあるということで、その、「それだけのもの」とは共同性に他ならんだろうと私は思う。いくら良いSSを書こうが一銭にもなりはしないのに書くという脱自性が作家と読者の境界をほとんど無意味にして奇跡のような共同性が到来する。文学というものもそもそもそういうものだったろうと思う。しかしいまや文学は真逆のものになりはてた。共同性ということにあまりに無頓着になった。文壇は作家というロマンを垂れ流すのみである。ロマンすら無効になっていまや文壇はアイドルの時代だ。

もちろん共同性の文学が一番えらい文学だというつもりはない。ただ作家というロマン主義に支えられる文学は悉皆クソである。死ねというほかない。

共同性の文学の真反対には実存の文学があるだろう。しかし徹底して実存を描いた文学は、実存そのものが構造に規定されているがゆえに、脱自性を兼ね備えて共同性の文学にいたる。