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hkmaroのブログ

読書の感想など

メモ

・タカヒロのゲームにも擬似家族願望を読み取ることは可能。『つよきす』に関してウィキペディアより「作中では下記の2名と対馬レオ、蟹沢きぬの4名で対馬ファミリーと呼ばれる幼馴染グループを形成している。4名の関係が続くエンディングも存在する。 メンバー全員の家庭環境は良くない(レオは両親不在、きぬは両親と兄から放置、スバルは家庭崩壊と父との不仲、新一は日常的な姉からの苛烈ないじめとそれを止められない両親)彼らが、家族と同じような安らぎを得る為に無意識に作ったコミュニティ」。また、『マジ恋』に関しても「風間ファミリー」というのが出てくる。「風間ファミリー」の連帯は他の擬似家族ものと違い疎外感を根拠としていないようにも見えるが、今京ルートの途中までしかやってないが、少なくとも京ルートでは彼女の家庭環境の悪さだとか、イジメだとか、そういう境遇がファミリーにこだわる理由になっていることが描かれている。

・『マジ恋』の作中の政治意識。暴力や競争はいけないザマス! などと苦情を言ってくる「モンスターペアレント」を学園の教師が暴力で痛めつけるシーンや、川神学園が掲げる「競争」の理念(および暴力の理念)。普通の生活は「別にいいけど精神が腐る」と言う学長。常に鍛錬を怠らない主人公や主要キャラクター達。また、主人公の類型が「参謀」「知略」タイプである。主人公たちの好きな言葉の中にある「意志」の賛美。これらの要素は明らかにサヴァイヴ系的でバトルロワイヤル系的であり、それらの政治思想的対応物であるネオリベネオコン的価値観の表出であるが、おそらくエロゲオタたちにはこの政治意識は表層的な材料に過ぎないとして真面目に受け取られていないだろう。『マブラヴ』のネット右翼的政治意識がそうであったように。美少女ゲームはそういうところで評価されるべきものではない、というわけだ。泣ける、とか、燃える、とか、萌える、とかいうところで評価されるべきだということになっている。そういうものが美少女ゲームの真価であり深層だと思われている。しかし、本当にそうだろうか。何かのシーンで泣けることも燃えることも萌えることも、大なり小なり何らかの政治意識が前提となっているはずだ。たとえば一例だが、萌えるシーンを作るためによく用いられる手法であるが、いつも強気なあの娘が、「幽霊なんか怖くない」などと言っておきながらお化け屋敷で主人公にしがみついてくる、などと言うテンプレが存在する。こういう風にヒロインにとってつけたような「弱点」を付与して主人公を頼らせる、という構図は『ToHeart2』のタマ姉シナリオのときにオタク達の間ですら批判されていたものだ。タマ姉は何でもできる優等生で、気が強くて主人公を尻に敷くタイプだが、犬が怖いという弱点があり、道端で犬に出会うと唐突に気が弱くなってしまって主人公がこれをおんぶして助けるというシーンがある。このような安易な設定を「気持ち悪い」と言うギャルゲーマーもいくらかは居て、「気持ち悪い」と感じるその感じ方はある程度ジェンダーに関する政治意識によって構成されていると私は考える。同様なことは、「何が泣けるシナリオなのか」「何が燃えるシナリオなのか」ということについても当てはまる部分がかなり大きいと推測する。

・ことほどさようにエロゲーも他の文学と同様に特定のイデオロギー的主体に作用して感動せしめ、またそのイデオロギーを補強reinforceする用途に資する。このイデオロギー的フィードバック関係こそがエロゲーをはじめとする物語の使命である、という側面がある。もちろんこのフィードバック関係の外に出ることを狙った物語も存在していて、そうした物語にも稀有な重要さがあると思うが、物語によって得られる快楽の主要な部分はやはりイデオロギー的循環にあると考えられる。なぜなら、読者が物語に感動するのは、物語が提示するイデオロギーに対して読者の持つイデオロギーが受容体として反応できるからであり、そのことによって価値観、文化観、政治意識、美学、等などの諸上部構造が作られるからである。

・あるいは、このように言ってもいいかもしれない、エロゲーは世界を開示する、と。また別の言い方をすれば、エロゲーは啓蒙する。啓蒙されていない、と思っているのはユーザー達だけである。当然その啓蒙が単純に良いものであるというような前提はもはや存在しない。啓蒙は神話を呼び寄せるに過ぎない可能性も大いにある。