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hkmaroのブログ

読書の感想など

日記

日記

今日は午前中に洗濯をして大宮まででかけることにした。ソフマップにエロゲー二本を売るついでに会社用の靴を買うためだ。
所沢まで電車で行き、バスで大宮に行こうと思っていたが、あいにくバスは一時間半後にしか来ないようだったので、歩いて新秋津まで行き、そこから武蔵野線に乗ることにした。新秋津まで歩く道のりは楽しかった。グーグルのナビにしたがって住宅街をトボトボ歩く。鳥がそこらへんで鳴いていて、その音くらいしか聞こえず、なんと言う鳥なのかは知らないが長閑だった。沢山の家があり、家族があった。青年二人がアパートか何かの二階の部屋に入っていく。これから部屋で遊ぶのかもしれない。どこかの奥さんが玄関に出て家族の靴をバケツの中で磨いている。年寄りが買い物袋をぶら下げて歩いている。グラウンドには野球のユニホームを着たオッサンたちが、グラウンド前の路上に車をとめて良いのかどうか相談している。「いいんじゃないの? もう何台かとまってるし」「いやでも……」案外気を使っているようだ。こういうのを見てまるで自分が人並みの生活をしているかのような気持ちになる。

道の途中で柳瀬川、という川を見つけた。川の近くに車をつけて、子供をつれて川岸まで降りていく母親が居た。子供は女児で、まだ小学校低学年に見えた。所沢のあたりでは本当に子供が自然と触れ合っているし、子供を自然と触れ合わせる親も居るようだ。車の中では、祖母と思しい年寄りが助手席で眠っている。私自身が子供の頃は、親から無理やりキャンプなどに連れて行かされて自然とのふれあいを強要されたときは、非常に疎ましく思っていたものだが、所沢の子供はどうなのだろうか。案外子供達自身も所沢の自然を楽しんでいるような気がする。その所沢の自然も時代を経るごとになくなっている、というようなことを宮崎駿が言っていたが、別に泥んこになることだけが自然との付き合い方ではないし、今の子供には今の子供なりの自然の感じ方があろう。

秋津まで行くと、途中に神社があった。そのすぐ近くに床屋、また少し行くと新秋津の駅だった。武蔵野線にのり、南浦和で乗り換え、大宮に行った。大宮ではフリーマーケットをやっていて人が沢山集まっていた。フリマの品物は何も見ず、ABCマートでビジネスシューズを買う。今まで使っていたのはアマゾンで三千円くらいで買ったものだが、四ヶ月で靴底に穴が開いて直に地面と足裏が触れ合う状態になってしまっていた。やはり安い靴はダメらしい。最低でも一年は持たせたい。そのため今回は一万円前後のを二足買った。二足目は半額というキャンペーンをやっていた。手入れ用のスプレーも薦められるがままに買っていたら、肌着をおまけしてくれた。

その後ブックオフで本を探すが見つからず。引き返して安いチェーンの中華料理屋で日替わり定食とビールを頼む。一杯だけならいい気持ちだ。駅の反対側に出て、ソフマップでエロゲーを売る。二本で二千九百円になった。ちなみに売ったのは『イモウトノカタチ』と『星空のメモリア(コンプリート版じゃない最初に出たほう)』で、前者が七百円、後者が二千円で売れて、買取金額アップ券を持っていたのでそれぞれ百円ずつ値段が上がった。まあ、交通費とメシ代にはなった。

その後川越線に乗り川越まで行った。川越は今日祭りをやっていて、死ぬほど人が多かった。埼玉県民って沢山いるんだナァ、と思わされた。みんな家族連れでやってきている。家族連れじゃないのはだいたい十代二十代の若者達だけだ。祭りは家族のイベントなのだ。悪そうな顔したマユゲの細い金ネクのおじさんも、奥さん子供をつれて「金使いすぎちゃった」などとぼやきながら家族サービスしている。また別の悪そうなロン毛のお父さんも、ベビーカー押したお母さんを待たせて、人通りをよけて駐車場の奥で分煙している。日本の仕組みはこういうちょっと悪そうなお父さん達の働きによって支えられているのかもしれない、などと思う。屋台出しているのも当然悪そうなお父さん、お兄さん、お姉さんだ。もちろん悪そうじゃないお父さんも頑張っているのだろうが、ドンキホーテに売ってそうな黒いジャージ着た金髪のお父さんが赤子を抱いて歩いている姿などのほうが印象に残った。彼らの中には、たとえ給料が安くても、若いうちに結婚相手を見つけて、親をハラハラさせながら子供を作って、という人生を歩んだ人たちが沢山いると思われるが、給料安くても子供を作る、というのは非常に国にとって大事なことだ。子供が沢山できて人口のバランスがマシにならなければ、そもそもの給料が上がらないかもしれないからだ。子供を作っている人はやはり偉い。しかし、私のようにもはや子供を作って育てるという選択をしようとも思わない人間もいるだろうし、色々な理由から子供を作れない人もいるだろう。そういう人だって何らかの形で同じ社会の子供達に影響を与えないわけがないから(まあ影響を与えるといっても有るか無いかくらいのほんの微々たるものだろうが)、間接的には子育てに参加しているわけであり、子供を作らない人を変に周縁化しない世の中になればいいなと(自分のことなので)思う。人ごみに苦しみつつブックオフで本を探したが、目当ての本はやはりない。

祭りは家族のイベントであると同時に土地のイベントでもあるので、その土地の家族のイベント、という側面もある。都市の祭りでなければ、基本的に祭りとは土地の家族のイベントであろう。川越の祭りなんかに繰り出すのは、やっぱり基本的に埼玉県民で、もっと言えば路線沿いに住んでいる家族達である。帰りの西武新宿線の本川越は新宿駅かと見紛うくらいにホームに人が一杯いた。こういうお祭りの中を一人で歩いていると、自分の今居る場所が自分の土地ではない、ということを強く意識させられる。自分がこういう町に住んでいるとか、ああいう街で働いているだとか、休みの日にはこういう場所に遊びに来るだとかいう一切のことが文字通り場違いなことのように思えてくる。一人だけ孤独に祭りのなかに紛れ込むというのは、大変ツライ体験だった。早く帰って青山ゆかりさんの声を聴きたい、と強く念じた。青山ゆかりさんと結婚したいが不可能なので、せめて今日の夜は青山ゆかりさんと結婚する夢をみたいものである。