読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

hkmaroのブログ

読書の感想など

十月十三日

日記

昨日は会社後先輩のアニソンバンドのライブを新宿まで観に行った。しかし、本当に誘ってくれた先輩には申し訳ないが、二曲聴いて途中で帰った。コピーバンドのライブで1500円(ドリンク別)とるというのも正直どうかと思わないではない。

その後一緒に観ていたN井君と新宿ソフマップへエロゲーを物色しに行った。本当に先輩には申し訳ないが、ソフマップが閉まらないうちにと急いで向かった。一分でも惜しかった。私にとってアニソンバンドのライブよりもエロゲーのほうが一億倍くらい重要である。

ソフマップでは『痕』のリメイク版と『真剣で私に恋しなさい!』を買った。十月十一月と購入予定の新作がないので、十二月までのつなぎとして。

N井君と店内で一時間くらい物色しながら話したのだが、やはりエロゲーにしても古典に意識が行く。古典を一通り修めてみたいという欲求がある。もちろん古典とはいってもエロゲーは歴史自体がまだ浅いので現在の形式を備えたものは古いものでも二十年弱くらいしか経っておらず現代やっても十分に面白いし、しかも評価がある程度定まっているものがいわゆる古典なので地雷が多いエロゲー界において古典はむしろ安定して面白い。とはいえ、たとえば『痕』のようなゲームを月厨と呼ばれるような人々がやってるかと言えばそれはかなり疑問である。かくいう私もやってないし、だからこそ買ったのだが、エロゲーの審美眼を身につけるにはやはり何にせよエロゲーの古典を読むことが大事なように思われる。なぜなら二千年代半ばくらいまでの奇跡のようなエロゲー黄金期では、そこで芸術としてのエロゲーの基本的な類型が出来上がり、それを前提として現代もエロゲーが作られ続けているからだ。今から十年くらい前あたりの奇跡の時代には、たとえば哲学・物理学の知識を持つシナリオライターだとか、SFや純文学領域の影響を受けたシナリオライターだとか、テキストサイトで大ヒットしてたシナリオライターだとか、綺羅星のような才能がエロゲー界という暗黒の大穹窿に瞬いていた。現代のエロゲーも、基本的にはこれらを模倣している作品が多いように見受けられる。つまり、黎明期にエロゲーの外部から新しい要素を持ち込んでいた古典があり、現代のエロゲーはその古典に準拠して安定したエロゲーを生産しているのではないかと思うのだ。

しかし考えてみるにシナリオライターはなぜ今のように重要視されているのか、というのは一つの疑問である。たとえば完全な新作の場合は体験版はあるにせよイラストの力はかなり大きいに違いないし、ゲーム本編だってゲームエンジンだとかスクリプトだとか音楽や効果音や声優の力だって大きいはずである。しかもシナリオライターだって結局は企画した人だとかディレクターだとかの用意した大まかなプロットに沿ってチェックを逐一受けながら書いているはずで、それなのに大多数のユーザーがシナリオライター偏重でゲームを評価しているのは本来ならちょっと行き過ぎである。私の想像としては、おそらくは過去の時代においてエロゲーに外部の力を持ち込めるのはほとんど唯一シナリオライターだけだったからなのだろう。エロゲーらしからぬ泣けるシナリオ、エロゲーらしからぬ燃える展開、エロゲーらしからぬミステリ的パズル、エロゲーらしからぬ社会風刺、これらのことはある種の弁証法的揚棄をエロゲーにもたらしたものと思われる。エロゲーが名作となるためには、エロゲーらしからぬエロゲーであることが必要なのである。これはラノベを読んでいたときにも同じことを考えていた。ラノベが名作であるためにはラノベらしからぬラノベであることが必要である。もちろん各々のジャンルの枠を破壊し切ってしまわない範囲でではあるが。この「らしからぬ」の部分において、軽薄文化の中では死に絶えてしまったと思われていた従来型文学の要素がはっきりとは目に見えぬ形で生き延びているような気がする。