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hkmaroのブログ

読書の感想など

マンガやアニメで高校の設定が多い理由

翻訳

http://ogiuemaniax.wordpress.com/2012/10/09/the-high-school-setting/
上記からの引用・翻訳。無断なので何か言われたら消す。英語力がなくてうまく翻訳できないので必ず原文を読んで欲しい。

<追記>引用元のブログ著者の方から日本語でコメントを頂いたので、原文と合わせてコメント欄を必ず読んで欲しい。私の下手糞な翻訳だけでは引用元記事の意図が十分には伝わらないだろう(というか、そうだからこそコメントを頂いたわけである)。

高校の設定
時にアニメやマンガは全体としてあまりに多くの物語が高校で起こるか、あるいは高校生を巻き込んでいるということで批判され、そして実際に多くのタイトルが、良きにしろ悪しきにしろ、この範疇に収まってしまう。これへの説明は「多数の読者の年齢が理由だ」「大人になる前の高校へのある種の理想化がある」というものから「ティーネイジャーを性的に描くことができるから」というものまである一方で、しかし僕には日本人たちの間の共通性としての高校が関係していないとは思えない。



殆どの日本の若者は高校に行く(もし異論がある方は是非どうぞ)が、一度高校を出てしまうと彼らの人生は枝分かれしていく一方である。あるものは大学へ行き、あるものは労働力となり、あるものは技術訓練学校へ行き、などなど。これは『イニシャルD』のような類の高校の外へ[舞台が]転換をするマンガにおいてすらもプロット・ポイントだ。このことが意味するのは、作家の側からすれば、もし人生において大多数の読者から直接的な関心を持たれるような時期を利用するというもくろみがあるならば、この時期は利用するのが難しいということで、なぜならば高校卒業後は皆あれほど大まかに似た経験をするわけではないからである。


明らかにこのことは人々が自分自身の経験の外にあるキャラクター達に関心を持てないということだとか、あるいは珍しい設定を持つ主人公を拒否するということを意味しないが、しかし作家は結局は単純で身近なつながりを失うだろう。このような失点はしばしば挽回可能だが、高校は恐らくいまだ人々を振り返らせて「僕もあそこに居た」と言わせることができる。人々は多分魔法の力も持ってなかっただろうしみんながダイアモンドを食うようなリッチな学校にも行ってないだろうが、しかしともかくテマティックな近道ではある。

このことは日本のサブカル批評でも言われていて、私が知っているのでは宮台とか宇野さんとかが「日本人の共通の記憶がもはや学校くらいしかなくなったから」とか言っている。つまり「社会が流動化した」というデカい話の事例として持ってこられるわけだ。宮台と宇野さんにかかれば何でもかんでも流動化だ。不透明化だ。日本社会はどぶ川のようなもんだ。そんななかで唯一日本人がみんな共通して通ったことがあるのが学校である、ということなのらしい。

しかし私はこれには異論がある。学校といっても人それぞれいろんな学校に通ったはずだし、学校に通った記憶なんてのも良い思い出ばかりではないはずだ。むしろ私は学校に行きたくなかった思い出のほうが大きい。学校をいいものだと捉える気持ちがわからない。それが現実の学校である限り。

マンガやアニメに出てくる学校は、リアルワールドの学校ではなく、より厳密には「学園」とでも言ったほうが良いものだ。これは架空の学校というような含みがあって、特にエロゲーでは色々な事情から18歳未満の登場人物がエロシーンを演じてはいけないという慣習があるので、「高校」が事実上タブーであり、その代わりに用いられるのが「学園」という用語である。「学園」と言うとあれほどうざったかった学校もなんだか良い所のような感じがしてくる。おそらく大多数の日本人が通ったことのある学校には学校名として「学園」という言葉は用いられてなかったであろう。もちろん中にはナントカ学園、という校名の学校も実際あるが、ナントカ高校、という名前のほうが多いはずだ。ジャンル名としても、高校ラブコメ、とかいうとかなり妙な感じで、普通は学園ラブコメ、と言う。あくまで「学園」である。

「学園」の諸特徴を挙げてみると、まず「学園」には必ずと言っていいほど学食がある。実際には学食がある高校はそんなにないと思うがどうだろうか。あと、売店では必ずと言っていいほどパンの争奪戦が行われる。また、屋上は開放されている。実際の学校では屋上は立ち入り禁止のところのほうが多いのではないだろうか。他にも場所で言えば中庭も開放されている。この中庭なるものも現実の学校にはそんなにない気がする。あったとしてもそんなに広い場所ではないはずだ。また、「学園」にはヤンキーや不良が少ない。居たとしても非常に弱いことが多い。また、「学園」では驚くほど生徒会の権力が大きい。特に生徒会長は教師たちよりも権力を持っている場合がある。また「学園」の文化祭(学園祭)は生徒のアイデアに対して非常に寛容で、学生たちはほとんどやりたい放題である。文化祭の前三日間くらいは徹夜をする部も珍しくないし、学校側としてもそれを許可している。また、「学園」の新聞部はゴシップ記事を書く場合がある。「学園」の科学部には必ずマッドサイエンティストがいる。「学園」の文芸部にはメガネっ子がいる。「学園」の諸部活はいつもどこかで部室・部費の奪い合いをしている。あと、大事なことだが、「学園」では授業が1、2コマで終わる。

つまり何が言いたいのかというと、「学園」は現実の学校とはかなり違うとても良い場所であり、これは日本のマンガ・アニメ文化における独特の文化であり舞台設定なのだ。「学園」が何故生まれて何故こんなに人気があるのかはわからないが、しかし人気があるのはある意味当然だと思えるような良い場所である。しかも「学園」には美男美女ばかりが沢山いる。もちろん高校がみんなの共通の記憶だからだとか、読者の年齢と近いからとか、高校時代が理想の時代だからだとか、高校生が性的な意味で大人の身体ももっているからだとか、そういう理由も間違いではないと思うのだが、なにより「学園」という場所がそれ自体で良い場所だからみんな「学園」が好きなのだ。だから、たとえばサラリーマン小説だってリアルワールドの会社とは違う「オフィス」だとかなんだとかいう空間を作り上げれば立派に「オフィスラブコメ」みたいなジャンルを確立することは可能だし、「オフィス異能バトル」なんていうのももしかしたら可能になるかもしれない。「学校」が「学園」になったような「楽園化」をこうむれば、何だってマンガ・アニメの舞台となるような気がする。