hkmaroのブログ

読書の感想など

喋ってる言葉が違う

In 1945, after the ending of the wars with Germany and Japan, I was released from the Army to return to Cambridge. University term had already begun, and many relationships and groups had been formed. It was in any case strange to travel from an artillery regiment on the Kiel Canal to a Cambridge college. I had been away only four and a half years, but in the movements of war had lost touch with all my university friends. Then, after many strange days, I met a man I had worked with in the first year of the war, when the formations of the 1930s, though under pressure, were still active. He too had just come out of Army. We talked eagerly, but not about the past. We were too much preoccupied with this new and strange world around us. Then we both said, in effect simultaneously: 'the fact is, they just don't speak the same language'.

<拙訳>
1945年、ドイツ及び日本との戦争が終わったあと、私は陸軍から解放されケンブリッジへ戻った。大学の学期は既に始まっていて、人間関係やグループは出来上がってしまっていた。とにかくキール運河の砲兵連隊からケンブリッジ大学寮への旅は違和感あるものだった。私はほんの四年半不在にしていただけなのに、戦争の動乱は大学の友人みんなとの接点を失わせてしまっていた。それから何日も違和感ある日々を過ごしたあと、1930年代の仕組が圧されつつも未だ生きていた、戦争の最初の年に一緒に働いていた男と私は再会した。彼も陸軍から出てきたばかりだった。我々は熱心に話したが、過去のことは話さなかった。この新しくも違和感のある周囲の世界のことで頭が一杯だったのだ。そして我々は二人とも、事実上同時にこう言った。「つまり、あいつらは喋ってる言葉が違うということなんだよ」

これはレイモンド・ウィリアムズの『キーワード辞典 Keywords A vocabulary of culture and society』の序文に書かれた言葉である。この言葉のあと、階級と言語の関係、階級と芸術の関係、そして「階級」だとか「社会」だとか「文化」だとか「芸術」だとか「産業」だとかいう言葉がそもそもどういう言葉なのかを調べる必要がある、とウィリアムズが考えた経緯が書かれている。

自分とコミュニケーションの相手との所属している集団がそれぞれ違えば、外見上同じ言葉を使っているにも関わらず、そこに何かしらstrangeな感覚が生まれてくる。こういう違和感があるということは、自分と相手では同じ意味で言葉を使っていないのではないかとウィリアムズは考えた。同じ言葉に違う意味を当てているのだ。つまり、実際のところは「喋ってる言葉が違う」のである。

最近よく考えるんだけど、本とか雑誌とか有名ブログなどに載ってる言葉とか、それらの言葉を読んで楽しんでいる人々の言葉と自分の言葉の間には、このstrangeな感じと非常に良く似たものがあるのではないかと思う。金融がどうのとか、原発がどうのとか、キャリアプランがどうのとか、ノマドがどうのとか、一向に関心が湧かないし、タレント作家が何賞を獲ったとか、今期のアニメのどれが面白いとか、そういうのも完全にどうでもいい。それらのことを話題にしてどうして皆が盛り上がれるのかがよくわからない。もちろん私もお金は大事だと思うし原発は色々問題があると思うし仕事の事も考えるし毎日遊んで暮らしたいとも思うし、好きな作家の本は気になるしアニメも好きな方だが、それら全部の話題において世の中の人々と会話して盛り上がれるとは到底思えない。仮にアニメの話をしていても限りなく平行線に近い会話をしてしまう。同じものについて話している気がしない。つまり、実際のところ、喋っている言葉が違う。

でまあ正直な心情を吐露するとするならば、私と言葉の通わない「あっち側」の盛り上がってる人々のことを私は内心で非常にバカにしている。あいつらはバカだと思っている。言葉の通じない野蛮人だと思っている。タレント作家の聖なるお言葉をありがたがる未開人だと思っている。固有名詞によって態度を変えるザコキャラだと思っている。しかしその割には私の社会的成功度はそのザコキャラ達よりもはるかに下である。私のほうが相対的にバカではない筈なのに外観上私のほうがどう見てもザコである。私は長い間この種の問題に頭を悩ませ苦しんできた。自分の周囲の人間がバカに見えるにも関わらず、実際に数字や結果などで見てみると私のほうがバカなのである。客観的に言うと私のほうがバカであるにも関わらず、主観的には周囲のほうがバカに見えるのだ。これにはいくつかの理由を考える事ができて、例えばもしかしたら私は自分がバカではないという空想から離れることができず、いつまでも周囲をバカだと思い込んで自分を安心させているのかもしれない。あるいは、例えば私はバカであるため他人がバカであるか否かを測定するにあたって正しい判断基準を持つ事ができず、それゆえバカでない人のことまでも一律にバカであると決めつけてしまうのかもしれない。

だが、周囲の人間みんながバカに見える私であっても、この人はバカではない、むしろ天才だ、と認めることのできる他人や、この人の気持ちはまあまあ分かる、と理解することのできる他人がいることも事実である。これらの人々のことを、私は不遜ながら常に「こっち側」の人だと思ってきた。「こっち側」の人はバカではない。バカではないと私が認める、という点において私と彼らは同じ領域に属している。なんとも独善的な線引きの仕方だが、そういう分け方をすること自体は不可能ではない。しかしながらつらいのは、「こっち側」だと思っていた人が「あっち側」の人と同じような言動をしてしまう場面を見てしまうことがあったりだとか、あるいは「あっち側」の人の意見が「こっち側」の人の意見より正しいように見える場面に遭遇してしまうときである。そのような「あっち側/こっち側」の線引きがかく乱されてしまうようなことがあると、いよいよもって自分ひとりがあらゆる共通性から取り残された存在であると感じられる。つまり自分ひとりが特殊な人だ、ということになって、そうすると自分は途方も無い天才か、あるいは途方もないバカか、どちらかしかないという風に思い込まれるときがある。実際には私自身何らかの階級に属する典型的な凡人であって、社会科学的にある集団の一部として色分けする事のできるようなありふれた存在に過ぎないのであろうが、そのことと主観的にどう感じるかということは全く別の問題である。そして、私が天才であるということはあり得ないので、消去法的に私は途方もないバカであるということになる。しかしそれを認めることには非常に抵抗を感じる。当然ながら自分のことをバカだと認めることはなかなか苦しいことだ。それに、どうやっても他人のことはバカに見えてしまう。こうして私は常に「自分は果たしてバカなのかどうなのか」という、自分がバカでさえなければ簡単に答えが出そうな問題にずっとつきまとわれることになったのだが、しかし最近はもうどうでもよくなった。

話の通じない「あっち側」の人が仮にバカであろうとなかろうと、あるいは話の通じる(と私が思い込んでいる)「こっち側」の人が仮にバカであろうとなかろうと、あるいはそのどちらからも疎外されている私がバカであろうとなかろうと、話が通じないからにはもうそんなことはどうでもいいことだと思えてきた。詳しくはこないだ日記に書いた「人間を辞める」という話にも関係するのだが、話の通じない人々が何をやっていようともうどうでもよい。我々(というのがもしあり得るとして)には我々の言葉があるだけであり、彼らには彼らの言葉があるだけだ。あるいは、私には私の言葉があるだけだ。どんなにこの世が 'strange world' であろうとももうどうでもよい。同じ国に住んでて同じ言葉を喋る同じ民族のように見えたとしても、彼らと私とでは相互に stranger なのであり、つまり外国人みたいなもんである。私の日本語と彼らの日本語は違う言葉なのだから本来翻訳が必要なくらいだ。だからもう、私がこのブログにシコシコ書いている内容がなぜある種の人々(というか大多数の人々)には全く理解されないのか、だとか、私の昔作っていた音楽がなぜ聴かれなかったのか(まあこれは単純に下手だったし才能もなかったのだろうが)だとか、そういうことについて悩んだり試行錯誤することはもうやめにした。平たく言えば、自分を理解して欲しいとか、話を聞いてほしいとか、そういう希望を持つことはやめにした。それは不可能だということがそろそろ分かってきたし、大体からして私は「あっち側」の人のことを見下しているので私自身彼らの言葉に聞く耳を持っていない。「あっち側」の話題に参加するのは時間の無駄だと思っている。許される限り、やりたいことだけやって、興味の向くことだけをやって生きていくことにした。