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hkmaroのブログ

読書の感想など

日記

今日は会社に行った。そろそろ文フリ用の原稿に本気を出して取り組まねばならない時期だ。というか、本来ならばもう大方完成が見えてきてる感じじゃないとおかしいのだが、まあ八月に振られたりして、というかそれしかないけど、それのせいで全然原稿を書いてどうとかいう気分ではなかった。

それでまあいつもラノベのレビューを載せているので、もう最近は全然ラノベ読んでないけどサークル紹介文にラノベ批評サークルだ、とか書いている手前何かしらレビューしなくてはならない。そのため、レビューするラノベを探しに高田馬場芳林堂をうろついたのだが、全く興味を引かれるラノベがない。いや、ラノベの棚そのものに興味がわかない。

それに対して今はエロゲーに再び関心が向いている。エロゲーは、エロゲーそのものも面白いのではあるが、それと同じくらい面白いのは、エロゲー周辺のネット上の言論である。2ちゃんねるだとか、エロゲー批評空間だとか、ブログとか、ツイッターとか、色々な場所で感想や論争が繰り広げられている。面白いのは、論争はあるにせよ、おおまかな部分でユーザーたちの意見が一致している点である。たとえばみんなが100点をつけるようなゲームに10点とか20点とかつけて全否定するようなレビュアーは珍しい。いることはいるけど、異端であるということがはっきりわかる。これがラノベとかのレビューになると、結構評価が二分されてしまったりする。超好きな奴が半分、馬鹿にする奴が半分、というような読まれ方をするラノベが沢山ある。その筆頭は西尾維新とかそのフォロワーであるが、その他の作家を見渡してみても、万人にうけるラノベ、というのは珍しい。それとは対照的に、おおむね万人にうけるエロゲー、というのは存在しうる。もちろんこれは、エロゲーをプレイするという行為自体がある種のスクリーニングとして機能していて、『AIR』を「泣いた! うわあああああん!」とか言うような人間しかわざわざエロゲーをパソコンにインストールしようなどとは思わないというような事情があるのではと思う。

しかしその一方で、エロゲーはラノベに比べて非常にマルチメディアでインタラクティブかつ一人で孤独に享受するメディアなので、洗脳の道具として有用であると思われるから、作品そのものに対して批判的になれるような距離感をユーザーからある程度奪う効用があるのでは、と私は疑っている。もちろん、このような効用があるのはよく作りこまれたエロゲーに限られる。

エロゲーがユーザーを洗脳する、といっても、ラノベだって大なり小なり洗脳の道具である。つまりイデオロギーの装置である。この世には、イデオロギーの装置では全くない、ニュートラルだ、と言い切れるようなものはどこにも存在しない。特にその中に言語的なメッセージを含むような媒体がイデオロギッシュでないということはありえない。それゆえに私はラノベのレビューに関心があって、ラノベの中に反資本主義的なイデオロギーを(作家が意図していないような所からすらも)積極的に見出していこうと思って色々やっていたわけだが、しかしもう疲れた。別に反資本主義的イデオロギーを見出していく対象はラノベじゃなくてもいいんじゃねーの? と自分自身に疑いが生まれてしまった。だからといってエロゲーならいいのか、というと、まあ恐らく事情はラノベとそんなに変わらず、ラノベと同種のイージーモードはエロゲーの中でも立派に流通している。そのこと自体は別にいいのだが、イージーモードの中にそれが無意識に利用している反資本主義的イデオロギーを見出していくという行為はひどく困難であり一見どこまでも詭弁じみた論理構成をとらねばならない場合が増えてくる。そうすると疲れる。じゃあラノベでもエロゲーでもない何かを題材にしてそれを扱えばいいじゃないか、という話になるのだが、今の世の中一般文芸もラノベ化しているし、そうでなくともラノベ的願望充足を文芸チックな膜に包んで行っているだけの小説ばかりが出回っている、というのが私の認識である以上、むしろラノベやエロゲーはイデオロギーの実験を行うにあたって最も前衛的なジャンルであった。それらには他のどのジャンルに比べても作家や読者の願望充足が最も強く露呈するように思われるからである。結局現代のラノベやその他のテキストに何かを期待するのが非常に疲れるわけだ。そんなことをするよりも、端的に言って古典を読んでいるほうが良い。良い、というのは、気分が良い。しかし古典はいまどき誰も読まないので古典だけ読んで素晴らしい素晴らしい言ってても仕方がない。ある程度多くの人が欲望むき出しで読むラノベだからこそ、欲望むき出しでプレイするエロゲーだからこそ、それについて反資本主義的に語るということが意味を持つのである。

しかし、エロゲーについては最初のほうに述べたとおり、洗脳の道具としてただの文章の塊よりも有効な形式を持っているので、あるいはエロゲーユーザーの層がある程度の範囲に絞られるので、エロゲー周辺で交わされる議論についてはラノベ周辺とは比較にならないほどの熱量と分量がある。作品自体の好き嫌いが大雑把かつ非論理的に議論されるようなことはあまりなく、その作品自体の良さは認めた上で、ではどのヒロインが良いのかとか、どのキャラのどの行為がどうダメだあるいは良いだとかいう、非常に細かい部分についての詳しい論争が行われている印象がある。もちろんこうした言論のユートピアはいろいろの条件下にのみ成り立っているだけで、たとえば宇野さんみたいな人が『AIR』をやれば、レイプファンタジーだ! とかいうことになってしまうわけだ。そしてその批判は実はあんまり間違っていないかもしれず、単にそういう批判を思いつきもしないような人たちが『AIR』の主要ユーザー層であるというだけのことかも知れないわけである。

しかしまあ、ろくな議論が行われない場所よりも現在進行形でアツい議論が行われる場所のほうに可能性を感じるのも事実だ。現在ではラノベにしろその他の文芸にしろ読者同士でアツい議論が行われる本がどれだけあるだろうか。それに対してオタたちがエロゲーを肴に交わす議論がどんなにかアツいことか。まあ、エロゲーじゃなくてアニメでもいいのだが、テレビを持たない私にとってテレビシリーズのアニメは全くどうでもよい。またテレビアニメに出てくる声優というのが軒並み気に入らない。いつからこう思うようになったのか自分でも謎だが、とにかく声優業界は擬制の上塗りで成り立っているという印象がある。声優を目指す若者は、いっそのこと労働しながらネット声優やればいいじゃないですか、プロになる必要がどこにあるんですか、99.9パーセント以上の声優志望者が声優で食えないこの世の中において、と思う。それはともかくエロゲー周辺で交わされるオタたちのやりとりは外から眺めていても単純に楽しい。エロゲオタっつーのは現代の文学青年だな、と思う。昨今のサブカル純文学を読んでインテリ気取ってる奴らよりもよっぽど純な書生気質をしていると思う。そろそろプロレタリア・エロゲーの潮流が生まれてもいいのではないだろうか。そしたら私は全力でこれを擁護し拡散するためにこの身を奉げたいと思う。三部構成で、第一部はブルジョワ革命を、第二部ではプロレタリア独裁を、第三部では革命後のディストピアを描くような本格的な作品が希望だ。