hkmaroのブログ

読書の感想など

『辻堂さんの純愛ロード』と予定調和


辻堂さんの純愛ロード

ネタバレあります

『辻堂さんの純愛ロード』だが、やはりこれをやってて一番考えたのは先日のプレイ中の感想にも書いた親世代と子世代(主人公世代)のドラマの反復の問題である。主人公である長谷大と辻堂愛の恋愛は、辻堂愛の親である誠(父)と真琴(母)との馴れ初めを反復する。たとえば、誠と真琴の恋愛は、非ヤンキーであり温和な性格をした誠と、ヤンキーであり凶暴な性格をした(しかし一本筋の通った純情な)真琴との間に横たわる困難を乗り越えた物語として語られるのだが、大と愛の恋愛もほぼ同じことが問題となる。一般人であることとヤンキーであることは、「住む世界が違うので、一般人である大に危険が及ぶ」などという問題をもたらすのだが、しかしそれを乗り越えたときに、あるいは乗り越える方法が極めて「バカップル」的であるという点も大と愛は誠と真琴を反復する。つまり、大(誠)がバンド演奏のステージをジャックし、愛(真琴)への愛を絶叫する。この事件を真琴は昔話として予言的に子の世代へと語る。なぜこうした反復が導入されるのか。一つの仮説として、この反復に「予定調和」という効果があるのではと私は考えた。予定調和というのは、いわば物語の裏切らなさみたいなものであり、たとえば水戸黄門の印籠だとか勧善懲悪は予定調和だといわれるし、萌えラノベで出てくる女性キャラみんなが主人公にベタ惚れになるのも予定調和である。この場合、エロゲーにおいて主人公とヒロインが恋愛関係に入ること自体が予定調和だと言う事も可能であるが、しかしエロゲーの個別ルートは主人公とヒロインの恋愛を簡単には成就させてはならない。恋愛成就にいたるまでにはドラマが存在せねばならず、そのドラマを効果的に仕立て上げるのが二人の間に横たわる障害であり、また多くのエロゲーではその障害の原因となるヒロインの「トラウマ」である。この『辻堂さんの純愛ロード』においてはヒロインたちの「トラウマ」はあまり大したことがなく、むしろ主人公と恋愛関係に入ることそのものが恋愛の障害を生み出す「トラウマ」となる。どの三人との恋愛においても、「一般人/ヤンキー」という二元論的対立が二人の恋愛を困難とし、また「ヤンキーと一般人の恋愛は困難である」というテーゼを物語に埋め込むのが愛が最初に切り出す「別れ話」である以上、障害を生む「トラウマ」はむしろ大と愛が最初に付き合った数日間にこそある。こうした構造がよくある萌えエロゲーと違うということはなかなか注目すべきことだとも思うが、しかしこの構造は萌えエロゲーに燃えエロゲーのメソッドを盛り込んだものだと私は考えている。たとえばニトロプラスの初期の『吸血殲鬼ヴェドゴニア』では「日常/非日常」を区別する要素が大きく盛り込まれていたと記憶しているし、タイプムーンの『fate/stay night』にも同じような要素があったと記憶している。こういう燃えゲーにはたいていの場合すでに非日常の世界で戦っているツンデレヒロインみたいな奴が居て、自らも非日常の世界に身を置こうとする主人公に対して「ハンパな覚悟で首突っ込むんじゃないわよ!」的なセリフを吐く。この燃えゲーにおける「日常/非日常」に対応するのが『辻堂さん』における「一般人/ヤンキー」である。しかしこの二分法は「日常/非日常」に比べてかなり予定調和的である。なぜなら、ヤンキーたちの抗争において死人が出ないからである。バイクでの交通事故もないからである。レイプもないからである。ドラッグもないからである。ヤクザ達も出てこないからである。ヤンキーマンガをネタ元の一つとして持つからには、当然これらの目を背けたくなるような暴力は描かれねばならないのだが、しかし『辻堂さん』においてヤンキーマンガの醍醐味とも言えるこれらの暴力は完全にオミットされている。どんなにケンカが激しくなっても、せいぜい骨折程度で済むし、キャラクターたちの「驚異的な回復力」ですぐ治る。あまりにご都合主義に支配された世界なのであるが、しかしこれはユーザー達の願望に真摯に誠実にメーカー側が向き合った結果以上のものではありえない。ユーザーは本物のヤンキーマンガに登場する暴力を決して望んでいない。なぜならこれは燃えゲーでなく萌えゲーだからだ。つまり、萌えゲーそのものがこうした予定調和に大きく縛られたジャンルなのだと私は考えている。これはライトノベルの特徴として田中ロミオが語ったイージーさ(ラノベの主人公たちが置かれる環境が低難易度であること)と同種のもので、『辻堂さん』は「日常/非日常」という暴力を境界線とした二分法を、「一般人/ヤンキー」へと頽落させることによって予定調和の世界へとフィットさせているのである。そして、この予定調和が「日常/非日常」ではなく主人公とヒロインの恋愛へと作用した場合に結果として出力されるのが、親世代と子世代のドラマの反復、という手法なのであろう。主人公とヒロインとの恋愛には障害が必要だ、と書いたが、その障害が描かれる過程で、勢いあまって主人公とヒロインの恋愛に必然性が失われてしまう可能性もある。つまり二人の恋愛が不安定化する。世のエロゲーにはヒロインが恋成らずして死ぬ、という鬱なシナリオを持つものもあるからには、ユーザーとしては「本当にこの二人、うまくいくのだろうか?」などとハラハラするわけだ。だが、親世代の恋愛、というある種の神話的な物語をそこに添えることによって、二人の恋愛をその反復として意識的に描くことによって、恋愛の必然性が維持される。つまり、恋愛の「運命っぽさ」が維持される。つまり、恋愛が再度安定化する。恋愛の成就を、ユーザーたちに約束する。

ところがこの『辻堂さん』は、せっかく反復による予定調和、という手法を取り入れたにもかかわらず、愛以外の恋奈ルート、マキルートにおいてその予定調和を壊してしまう。具体的には、誠と真琴の馴れ初め、という好材料を放棄する。もちろんこのことは愛以外のヒロインを選んだのだから当然だし、恋奈ルートでもマキルートでも別種の予定調和の可能性が暗示される。恋奈ルートでは、私の記憶が判然としないので勘違いかもしれないので恐縮だが、「昔から」恋奈は主人公に注目していたというようなことがほのめかされていたような気がするし、マキルートではマキとの恋愛が明白に三ヒロインの中で最も強力な予定調和の力により予め約束されていた恋愛であることが示される。つまり、幼少期の結婚の約束、である。だが、このマキとの間の予定調和は、愛との恋愛における予定調和を破壊してしまったことによる、萌えゲーの枠を逸脱したかのようなドラマの厳粛さを糊塗するための、いささか無理矢理なテコ入れのように見える。

このゲームでは、愛ルートも、恋奈ルートも、マキルートも、一貫して辻堂愛のことを描く。すでに述べたとおり、ヤンキーであるヒロイン達と主人公との恋愛の間に横たわる障害が、ほかならぬ辻堂愛によって作り出された「ヤンキーと一般人の恋愛は困難である」というテーゼによって生み出されるからだが、主人公と辻堂愛との関係性の変遷として、愛ルート→恋奈ルート→マキルート、という風に読むことが可能だ。まあ、シナリオライターもその順番で書いたのだろうという単純な推測もあるし、それ以上に、恋奈ルートに入る分岐点となる、愛の別れ話を受け入れる場面で、愛ルートにおける二度目の「別れ話」の後に出てくるシーンのCGが挿入されるのだ。この演出はすでに愛ルートを通過したユーザーの心をえぐるばかりでなく、ある意味で「愛ルート後」の世界というものをユーザーに意識させるであろう。で、恋奈ルートにおいてギクシャクしながらもなんとか話程度はできる存在になった大と愛の関係が、マキルートでは、愛の別れ話の場面で、「友達になろう」ということになってそれほど悲壮感なく演出されることによりコンバートされ持ち込まれる。ただ別れるだけなのであれば恋奈ルートと同じように演出しても問題はなかったはずだ。ここでもまた、恋奈ルート後の大と愛の関係性、というものをユーザーに意識させるはずである。そして、マキルートでは大と愛の関係性は、一つの決着を見る。恋奈ルートエピローグでは、なんとなくうやむやのまま、半分冗談ではあるにしろ愛が大のことをまだ好きだとか言ったりしていたのに対し、マキルートでは大と愛は決定的に破局する。そして、愛を慰める楓先生によって「どうだった? 辻堂愛の純愛は」という、半ばタイトルコールじみたセリフ*1も登場して、ゲームそのものの締めくくりという感じが強い。

多分多くのユーザーが、共通ルートでの愛との恋愛によって当然のように初回では愛ルートに入るだろう。そしてその愛との思い出を抱いたまま、他の二人のルートに入るだろう。そこで描かれる辻堂愛の失恋の苦しみを見て、主人公よりむしろ愛に感情移入するのではないかと思う。そして、そういうところまで含めてメーカーの計算通りなのだと思われる。つまり、このゲームは恋愛の成就を楽しむ萌えゲーでありながら、同時に失恋のつらさを描くこともその意図に含んでいて、それはかなりの程度成功している。本来、予定調和の法則が働く萌えゲーの世界において、失恋とはその箱庭の世界を乱すものであり、通常排除されるものだ。「日常/非日常」を「一般人/ヤンキー」へと都合よく頽落させたように、親世代のドラマを子世代に都合よく反復させたように、萌えラブコメを貫徹させるためには、辻堂愛の失恋は本来どうにかして都合よく排除されねばならないはずのものだ。ライトノベルではよくあるように、仮に失恋したとしても「あたしはまだお前のこと諦めたわけじゃねーんだぜ」的なことを囁いて主人公を揺さぶったりする役割をあてがわれたり、ということは可能なはずで、実際その一部は先述した恋奈ルートのエピローグで見ることができる。しかし、マキルートではそんな可能性は完全に粉砕され、大と愛の恋愛は完全に終わるのだ。

このゲームの評価すべき点は、もしかしたらヤンキーという題材が偶然的にもたらした産物なのかもしれないが、予定調和の世界にありながら、その予定調和が本来排除するはずのものを取り入れたという点だろう。これは非常に困難なことなので、それ自体で賞賛すべきことであるし、こういう「予定調和/脱予定調和」の弁証法こそがきっとジャンルの枠を拡げるのだと思う。

おまけ

f:id:hkmaro:20121008003545j

主人公の部屋のエアコンはどこにあるのか。

*1:これ書いてたときは楓先生のこのセリフだけかと思ってたら、辻堂さん金髪ルートですでに辻堂さん自身による「辻堂さんの純愛ロード」発言を確認できた。