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hkmaroのブログ

読書の感想など

日記

日記 マンガ

昨日はM岡さん、GUNチャン、A目さんという面子で恵比寿の居酒屋で飲んだ。また人の噂話とかをする。何を話したかはあんまり覚えておらず。その後カラオケ屋に行ったが、いつの間にか酒がテーブルの上に載ってて、何歌ったか覚えておらず。馬場に戻り、M岡さんと二人で土風炉に入る。M岡さんは酒を飲んでいたが、私は水を飲む。天丼と海鮮丼みたいなのをシェアして食う。

電車は寝過ごして本川越まで行った。自遊空間に入る。最近のマンガ喫茶は滅茶苦茶料金が安い。三時間パック五百円、とか書いてある。深夜は四時間で千円だったが、七時間パックだと千二百円だと言う。二百円カレーにチキンナゲット百五十円をトッピングしてもらったが、これは頼んですぐ後悔した。味は普通のレトルトカレーで別に悪くなかったのだが腹が破裂しそうだった。イチゴオレ飲みながら『莫逆家族』を五巻まで読んだ。

莫逆家族(1) (ヤングマガジンコミックス)

莫逆家族(1) (ヤングマガジンコミックス)

M岡さんに熱烈プッシュされて興味を持って読んだのだが、昔ヤンキーだった三十代の人々が、社会の理不尽な暴力などに対して「家族」を作って自ら暴力を振りかざして対峙する、という話。普段は普通の仕事や生活を送りつつも「家族」を襲う暴力には暴力でもって立ち向かう、という点でヤクザとは区別して描かれている。このマンガが連載され始めたのは二千年前後くらいらしいのだが、奇しくも同時期に「擬似家族」を夢見るエロゲーがいくつかあったのは面白いことだ。たとえば『AIR』などはその嚆矢という感じがあるし、その名の通りの『家族計画』などもある。もちろん『莫逆家族』の「家族」とは、すでに家庭を持っている人間たちすら包含する、いわゆる家族よりも広い範囲を含む考え方だし、特に暴力を持つか否かという点は非常に異なるのだが、通常の意味での家族とは違う独自の「家族」という意味では共通する。これらの「擬似家族」は、血縁による絆を相対化するばかりでなく、世間一般に流通している規範にノれない者たちの共同体として描かれる。たとえば『莫逆家族』では国家の法であり、『AIR』では観鈴の実父に象徴されるある種の合理主義であり、『家族計画』では(ウィキペディアによれば)「天涯孤独の主人公、リストラ中年、中国人の密入国者、家出娘、自殺願望の女性など」が持つ、「各々の過酷な運命」である。こういう「擬似家族」願望はおそらく近年の諸作品にもずっと影響を与え続けていると思われる。少し時代の下った『ひぐらし』の「部活」は名前が違うが明らかに「擬似家族」的願望を「無害な共同体」的願望にくるむ形で含んでいる。これ以後、「無害な共同体」つまり部活とかサークルの部室にたむろする者たちのヌルい日常が、「擬似家族」とは判然と区別できなくなったような気がする。つまり、世間一般の規範に適応できない者たちの共同体としての「部室」や「サークル」が表現される。典型的には『はがない』の「隣人部」である。

朝五時に新所沢まで帰り、十二時まで寝る。なぜか首が痛く、全身が筋肉痛で、もうどっかに出かけるような気力体力がなく、昼飯を亀仙人で食い、帰ってまた寝る。外は寒い。起きたら五時で、もう外が暗い。パルコで中華弁当半額を買う。

以下最近買ったマンガの感想。

リーチマン(1) (モーニング KC)

リーチマン(1) (モーニング KC)

女神のような嫁。疑問なのは、働きながら夢を追うという方法ではなぜいけなかったのか、ということである。まあきっと色々あるのだろう。

花咲さんの就活日記 1 (IKKI COMIX)

花咲さんの就活日記 1 (IKKI COMIX)

これも『リーチマン』と同じくアラサー無職が将来を思い悩むマンガ。こういう人は多分昔からいたんだろうけど今アラサーと夢という問題が人々の意識の上に顕在化してきたということなのであろう。(他人事ではない)

強風記 (KCデラックス)

強風記 (KCデラックス)

カラスヤサトシの結婚のマンガは別に面白くなくて人にあげたが、こっちは面白いとM岡さんが猛烈にほめていたので買った。確かに面白いが、後ろに入っている四コマ形式じゃない短編のほうが個人的には面白かった。表題作は売れない三文文士が主人公なのだが、この主人公の年齢が明らかではないがこれもアラサーくらいなのではないかと推測するし、上記二作のアラサー無職マンガと中味は結構重複するような気がする。とはいえこのマンガの主題はいい年して夢を追うこととかそれについて悩むことでは多分なく、人間ドラマが問題なので、結局主人公は講演を頼まれたりするようなそこそこ有名な作家となる。
ところで許せんのは西尾維新が帯に「諭された! 小説家かくあるべしと!」などといけしゃあしゃあと述べているところであり、手前は主人公の烏山ではなく明らかにライバルの白鳥的ポジションの作家だろうが、という感じである。それとも西尾は「かくあるべし」である小説家は白鳥だ、という意味で書いたのだろうか。それだったら納得するし、蒸発でも心中でも自殺でもどうぞしてくれという思いである。

空が灰色だから 3 (少年チャンピオン・コミックス)

空が灰色だから 3 (少年チャンピオン・コミックス)

これ週刊で描いてるのが結構すごいと思っていたんだけど、やはり一巻二巻に比べると切れ味が鈍ってきた感が否めない。それでも面白いけど、Tシャツっつーのがチャンピオンのサイトで売ってて、買ってみようかと思ったら一枚3800円送料840円とかでえらい高いし、デザインもなんか期待してた感じと全く違ったので買う気がなくなった。単行本の表紙みたいなのにしとけばいいのに。

アニメ化するらしくてDVD抱き合わせ版があったけど通常版を買った。このあすかも聖ビッチ的要素が強く、単なるフェティシズムを超えている。二巻から麻央というキャラが出てきてて、これが結構微妙な造形のキャラなのだが、しかし重要なポジションにはいる。このマンガは一貫して見られる客体としてあすかが登場していて、各短編の主人公とも言える存在はその時々の見る主体としての男たちなのだが(特に父親の職業がグラビアアイドルを撮るカメラマンというのも注目に値する。これは『マリみて』において蔦子さんがカメラマンであることと同じくらい重要なことだ)、しかしこのマンガは、男たちは自分たちのエロエロな目線を、あすかの純粋無垢な諸行為、諸言動によって反省させられるという構造を持っているため、彼らはあすかに自ら接触し作用することができない。そこで主体と客体をつなぐ存在、あるいは、同時に主体であり同時に客体であるような中間項として導入されたのがおそらく麻央である。この巻に入ってる27幕目の話が象徴的で、麻央はあすかのスカートを覗こうとするのだが、その麻央のスカートの中身が遠くに居る男から丸見えになっている、というシーンが存在する。このマンガはあすかの様子を観察して色々な感想を抱く男たちがある種の共同性を持っているということを示すのだが、それはつまり「男性」的なるもののある種の規範やイデオロギーを提示しているということであり、実際はこのマンガは女性というよりも男性を描いているのであるが、そこに混入する異質なものとしての麻央は自ら積極的にあすかに近づくことができ、しかも唯一特権的にあすかに肉体的に触れることができる。

竜の学校は山の上 九井諒子作品集

竜の学校は山の上 九井諒子作品集

最初の方に入ってる魔王・勇者ものの話は割りと類型的。それよりもやはりケンタウロスの話とか、竜の学校の話に現代的な意義がある。ケンタウロスの話では、普通の人間は猿人と呼ばれていて、ケンタウロスが馬人と呼ばれている。馬人の方が性格的に働きもので、睡眠時間も三時間でよく、寿命も短いので定年退職すればすぐ死んで恐らく年金などがあまり要らない。会社の業績も、馬人が多いほど良い傾向にある。会社も馬人を採用したがる。このマンガでは「役に立つ/立たない」という二分法をいかに超えるかということが問題になるわけだが、ケンタウロスですらスーツを着ていることからわかるように、「役に立つ」と思われているものは実はスーツみたいな不便な「役に立たない」服などによって構成されていたりする。だからこそ、馬人であるタナベ君が「ねえミキさん」「もし地球上に猿人か馬人のどっちかしかいなかったら」「もっと暮らしやすかったんですかねえ」という問いを猿人であるミキさんに発したとき、彼女が「さあ」「そーかもね」「でもちょっとだけつまんなかったかもね」と答えるような余地が生まれる。馬人によって散々辛酸を舐めさせられてきた彼女が、しかし馬人のいない世界は「つまんな」いと言い得る可能性もあるのだ。とはいえ「役に立たない」とされた者がいかにして自ら恥じたりとか「役に立つ」他人から指差されないようになって、結局のところ階級のようなものが形成されないようにするのか、ということについての実践的な努力は読者がするしかなく、馬人が居る世界が面白いからといって猿人の待遇がよくなるわけでもない。