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hkmaroのブログ

読書の感想など

『辻堂さんの純愛ロード』プレイ中に感じたもろもろのこと

エロゲー ネタバレ

『辻堂さんの純愛ロード』と『星空のメモリア』の軽いネタバレが多分あります

今日は仕事が休みだったので一日中エロゲーをしていた。『辻堂さんの純愛ロード』だ。


辻堂さんの純愛ロード

エロゲーは、というか恐らくゲーム一般がそうなのだろうが、習慣性めいた何かがある。きっとある。たとえばエロゲーは、テキストを読むという意味では読書と基本的に同じ行為をしているはずなのに、体験としては全く違う行為である。やめたくてもやめられない。依存状態がはっきりと作り出されている。もちろんこうした依存というか、変性意識を作りだすためにはそのエロゲーにいくつかの条件が課せられなければならないだろうが、巷で評価の高いエロゲーは大体この条件をクリアしている。評価の低いエロゲーとは依存状態を作らないエロゲーである。ユーザーをモニターにひき付けて離さないためには、色々と手法というか技法が恐らく存在していて、ラノベめいた短くて平易な文から構成されるテキストや、単なる演出としての効果以上に、テキストの理解を十分に補助する効果を持つ要素として存在している立ち絵や背景や効果音や音楽が、尋常でない高速クリックでのプレイを可能にさせる。ユーザーはノッている状態にあれば、テキストの半分も読まなくてもエロゲーを「読む」ことができる。数時間のエロゲープレイによって変性意識が作り出された状態であれば、テキスト中の漢字とカタカナのみを視覚的になんとなく認識するだけで文脈をほぼ正確に把握できてしまう。キャラクターの表情の変化や、背景や、効果音や、音楽が、テキストと相互に規定しあい、文脈を決定する。ユーザーはテキストを読まなくともエロゲーそのものは「読む」ことができる。小説の速読など比較にならないようなスピードで、エロゲーマーはエロゲーを「読む」。

テキストを送るためにクリックする必要がある、というのも一つの味噌だと思われる。オートプレイモードはあるものの、「地の文」や主人公のセリフは多くの場合音声が伴わないため、流しっぱなしにはできない。常に画面に張り付いていなければならないのだ。バック・グラウンド・エロゲーはあり得ないのである。そして幾千回、幾万回もの催眠的なクリック作業の節目に現れる選択肢は、ますますユーザーの擬似的でかりそめの「主体」を補強する。主人公とユーザーが一体化できることが大事だとなんとなく思われているが、実はエロゲーの主人公は色々と特異な設定がされていたり、独特の性格をしていたりして、結構キャラとして濃い造形が付与されている場合が多い。彼ら主人公が物語の中でとる行動も、現実のユーザーが同じ状況におかれたら決して真似できないような行為ばかりである。実は主人公とユーザーが一体化する、などという目標には無理がある。本当に「ユーザー」なる不特定多数のエロゲーマーの性格を勝手に想定して作り上げられるであろう典型的で抽象的なオタのパーソナリティを物語の軸に挿入してしまうと、肝心の物語が動かない、という事態が起こってしまいうる。エロゲー批評空間で、色々な作品に対する辛口のコメントを見ていると、主人公に対する批判としてよくあるのが、「主人公が流されっぱなしで主体性がない」とか、「二人のヒロインの間で迷ってばかりでウザい。はっきりしろ」とかいうものである。しかしこの「主体性」の無さは、恐らくシナリオライターやディレクター・プロデューサーの目論見としては、一種のリアリズムとして、いかんともしがたく「主体性」を発揮できない矛盾や葛藤を必然的に伴う「現実」を描くために導入されたはずのものであろう。このような矛盾葛藤は、近代的な文学作品が典型的に描いてきたものであって、「主体性」が無く「流されて」しまい、最後には破滅的な結果をもたらす主人公の類型は、国語の教科書にも載るくらいである(『舞姫』や『こころ』の主人公たちがもしエロゲーの主人公として登場したら、エロゲー批評空間では彼らを批判する言辞が飛び交うだろう)。だがこのリアリズムはユーザーたちにとってみれば主人公としての力に乏しい。主人公にはふさわしくない。主人公は主体性を持ち、主体的にヒロインを選び、主体的にヒロインのために奔走し、泥臭くても良いから行動し、最終的にヒロインとの愛を成就せねばならない。このような「主体性」は「内面的な葛藤を持ち苦悩する近代的自我」などと紋切り型で表現されるような主体とは全く違うものである。もしくは、仮にエロゲーのドラマの中で主人公が葛藤し悩む場面が挿入されたとしても、「悩むよりは、今は彼女を追いかけるときでしょ!」みたいな助言をする物分りのいいお節介焼き系サブキャラ(女・ファンディスクで攻略可)みたいな奴が尻をたたき、主人公自身も「そうだ! 単純なことだったんだ! 自分の気持ちのままに行動すればよかったんだ!」的な悟りを開き、愛に目覚め、ヒロインへの愛をなりふり構わず絶叫し、周囲のある種の気恥ずかしさに包まれてハッピーエンドを迎えたりする。これはいかにも安いドラマである。安いドラマであるにもかかわらず、ユーザーはこのドラマに感涙する。頭がおかしくなっているのである。小説で同じ物語を読んでも、本を破り捨てたくなるだけで、涙一滴出はしないだろう。だがこの安いドラマを感動的なドラマに仕立てあげるのがエロゲーという手法であり枠組みなのだ。具体的には、すでに述べたような、平易なテキスト、立ち絵、背景、効果音、音楽、(そして声優)である。

主人公とユーザーが本当は全く乖離した存在であるにもかかわらず、それらを無理やりに一体化させるのがエロゲーという手法なのだとすれば、ではそこに存在する主人公および彼の「主体性」とはいったいどのようなもので、そして何故ユーザーはそのような「主体性」を理想の主人公の条件として求めるのであろうか。安いドラマ、と述べたが、しかし単純に安いわけではない。大体のエロゲーにおいて、葛藤、という場面が一度は挿入される。主人公は、「トラウマ」状態にあるヒロインを、救うべきか、救わざるべきか、と煩悶する。しかしその悩みをお節介焼きキャラに諭されて粉砕し、「行動」フェイズに移るのだ。敢えて飛躍的な言葉を使えば、意識的に「悩める近代的自我」をぶっとばすような志向を持っているのが理想のエロゲー主人公なのだ。ここにおいてオタがリアルライフでは抑圧されている「行動」への欲望を発散させている、と見るべきなのだろうか。そういう側面もあるだろう。むしろそういう側面をこそ煽ってエロゲーが開発されているのでは、と思うようなことも多々ある。しかしそれが当てはまるのは大抵の場合抜きゲーである。現実に抑圧されたファンタジーを充足する、という機能を果たすのはAVと似たような企画意図を持つ抜きゲーが主だと思われる。萌えゲー・泣きゲー等の場合にも、抑圧された幻想を解放するという機能がないわけではないと思うのだが、そこで開放されるのは「ツンデレ金髪ツインテール」や「ピンク髪の妹」などといった独特な形式を持つ欲望であり、これは現実が抑圧するようなタイプのものではない。なぜならそれらは、「看護婦」「女教師」「人妻」といった、AVや抜きゲーがしばしば用いる、現実に存在する客体ではないからである。ツンデレ金髪ツインテールなどというパーソナリティは現実にはまず存在せず、このことは、「別にアンタのためなんかじゃないんだから! って本当に言うツンデレ初めて見た」などというツッコミがエロゲー内で成立してしまうほどなのである。

あと気になったのは、主人公・ヒロイン達世代のドラマが、その親達世代のドラマの比喩形象として反復される、という形式が用いられることがある点だ。こないだやった『星空のメモリア』でもそうだった。主人公達の「葛藤」や「行動」は、実は彼らの親達も一度経験したことがあるもので、それを反復する形で主人公達のドラマも進行する。主人公達は、それとなく親達から助言をもらい、それをヒントに困難を乗り越えていく。このような形式がいつからエロゲー内で用いられるようになったのか、しばらくエロゲーから離れていたのでわからないのだが、私がよくエロゲーをやっていた二千年代半ば頃にはあまりみられなかったような気がする。もちろん私がやっていたゲームには少なかったというだけで、昔からよくある形式だったのかもしれない。この、世代間の反復、という形式がどういう願望に基づいているのかはよくわからない。大河ドラマへの欲求なのか、ユーザー間で親子とも言うべき世代差が生まれていることを反映してなのか、あるいは先行する予言や神話に規定されたいというある種の保守性を意味しているのか。私に考えられるのはこんなことくらいだが、どれも的外れなような気がする。もっと別のゲームをやってみて、またもや世代間の反復という形式に出会ったら、もう少し本格的に何事か考えられるような気がする。

あと、『辻堂さん』は非常に選択肢が多い。選択肢が多いことは、ゲームとして歓迎すべきことだろう。それが多いほど、基本的にはユーザーはより深く催眠にかかると思って間違いない気がする。選択肢の少ないゲームで催眠にかけるのにはかなりの手間が必要なのではないだろうか。たとえば『ひぐらし』なんかは選択肢がなく、かつユーザーを画面に張り付けにする力に満ちているゲームの好例だと思うが、かかる作品がいかに周密な手間をかけられた作品であったかは、やった人間にならわかるだろう。それはともかくとしても、選択肢とその機能、特に主人公とユーザーを擬似的に一体化させる機能・効果についてはすでにエロゲーマー達の間で一定の理解が共有されているらしいし、もはやこれは議論の前提として、公理として扱ってよいと思うのだが、エロゲーの選択肢みたいな、選べても実質は選ばされているだけ、という機能がかもし出す擬似的な主体性は、クリックせざるを得ないことによってユーザー自身が話を進めている、気がする、という、ゲームの「BGM」化を禁ずるような性質と相俟って、なかなか強力な効果を生み出している気がする。

『辻堂さん』やってたからひさしぶりにヤンキーマンガが読みたくなって電車を乗り継いでブックオフへ行き軽く立ち読みなどした。こうした夢遊病じみた生活をしていると不意に死にたくなる。それはさておき、『辻堂さん』に登場するヒロインたちは、ヤンキーマンガにでてくるいわゆる「マブいスケ」ではない。辻堂さんたちは、彼女たち本人が秀人君でありマー坊君であり、また相沢であり椎名なのである。彼女たち本人がバイクを乗り回したりケンカで超強かったりするヤンキー(言外に男というジェンダーを含む)なのであり、決して「スケバン」ではない。このゲームは、なんというか、ヤザワや拓みたいな運とかハッタリとかでピンチを切り抜けるのが主人公だとすれば、ヒロインたちがヤザワ・拓的な主人公のハッタリを鵜呑みにして彼に一目置いてしまう暴走族のヘッドなのだ。こうした特長はたとえば『織田信奈の野望』とかみたいに戦国武将を女性化する、というものと共通するもので、単に固有名詞を引き継いでいないだけである。しかもそういうネタの用い方に対して、つまりヤンキーという極めて男性的なキャラのあり方をそのままで女性化した挙句非ヤンキーの主人公とイチャイチャさせたりアナルセックスさせたりする、という荒唐無稽な、マジなヤンキーマンガ愛読者がこのゲームやったら怒るか吐くかしそうな状況に対して、我那覇葉というキャラを登場させることによって、セルフツッコミめいた皮肉をすらかましているように見える。この我那覇葉というキャラクターは、顔や体つきは男性以上に男性的といえるマッチョな体格をしていて、声優も男の声優が声をあてていながら、作中では女子として言及されるし、服も女物である。この気持ち悪さ。我那覇葉というキャラクターは、男性というジェンダーを暗黙の前提としている「戦国武将」だの「ヤンキー」だのをも美少女にして客体化して性の対象にしてしまう限りないオタの無節操な性欲の無制約性の気持ち悪さだとか、こうした気持ち悪さを欲するエロゲーユーザーとこの気持ち悪さを売って日々の糧としている諸種の「女性化モノ」製作者たち全体に対する皮肉のように、私には受け取れる。もちろん普通にプレイしているエロゲーユーザーには単なるギャグの範囲を超えない滑稽なキャラと受け取れるようなやり方での。ちなみに我那覇葉のしゃべり方は時代小説の剣豪みたいに古風で、求道者という感じであり、それこそ戦国武将めいてすらいて、そこに女性化もの企画そのものを滑稽化しようという意図を読み取ることも不可能ではないと、やりながら思った。