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hkmaroのブログ

読書の感想など

エロゲーのメモ

星空のメモリア』のネタバレを少し含みます

星空のメモリア』現在進行形でやってるけど、共通ルートは良かったのに個別ルートは結構かったるい。だが、エロゲーを毎日やっていると、まるでエロゲーのキャラが自分の日常生活の中に実在するかのような錯覚をする。毎日二時間三時間と、同じキャラクター達と戯れる毎日を過ごしていると、各々のキャラに関する固定観念のようなものができる。キャラ同士の掛け合いもそれを強化する。というよりも掛け合いによってキャラの固定観念が固定化する。このゲームの、あるいはキャラものの物語一般における掛け合いにおいて重要なのは反復である。キャラ甲とキャラ乙の掛け合いには、あるお約束のパターンが存在し、ことあるごとにそれを反復することにより関係性が固定化され、その固定化された関係性はキャラ甲なり乙なりの固有のキャラクター性を表現し、あるいはキャラクター性を形作る。そして甲は乙のみならず丙や丁とも反復を含む関係性を持つ。これは各キャラクターのキャラクター性をユーザーに対して呈示する一つの非常に有効な技術・方法論であることには違いないし、しかのみならず、キャラクター達を共同性とともに呈示することにも資する。この共同性は正しく無害な共同性であり、主人公とヒロインの対幻想的な関係はこの無害な共同性から分離したり癒合したり、あるいはそれらを繰り返すことによって表現される。例えば、この作品の諸個別ルートでは、下記のような図式が顕著に見て取れる。

天クル周辺の無害な共同体——俺(主人公)——ヒロイン

俺(主人公)は共同体から分離した状態にあるヒロインと共同体をつなぐ架け橋のようなものである。そして、俺(主人公)が架け橋として奮闘することが、ヒロインの「トラウマ」を治癒するためのカウンセリングの過程となっている。萌え・泣きゲーがヒロインに対して「トラウマ」を付与し、それを治癒するカウンセリングの過程を主な個別ルートのドラマの主題に据える理由を合理的に説明できるのは、以下のような事情なのではないかと私は推測している。すなわち、「トラウマ」とはヒロイン個人に固有の実存的な心的外傷であり、つまるところヒロインの固有性であり実存の象徴で、これがそのキャラクターの深層を呈示させて物語を重層化させるのに役立つのみならず、それを癒すという俺(主人公)の行動が、最終的に無害な共同体から分離してしまうにせよ癒合してゆくにせよ、ヒロイン達の固有性や実存の擁護を意味するからである。ヒロイン達の「トラウマ」は、大抵の場合それが理由で自ら無害な共同性から分離しようとしたり、顕著な場合には社会不適応な行動(ひきこもったり、人間関係を絶ったり、不登校になったり、人に暴言を吐いたり、というのがよくあるパターン)として表出してしまうのだが、これはつまりヒロインの「ダメ」な内面が表面化したものとして呈示される。このようなヒロイン達の「ダメ」な内面を、俺(主人公)は、作品によっては「トラウマ」を根治することによって昇華させたり、あるいは「ダメ」な内面をそのまま受け入れることによって、無害な共同体への癒合へと導いたり(萌えゲーのパターン)、無害な共同体(=日常)からの分離(シリアスなバトルものはこのパターンが多い気がする)へと導いたりするのだが、結果としてはヒロインが「トラウマ」から何らかの意味で快復する点で同じである。ヒロインが最終的に死ぬことも多い泣きゲーには留保が必要かもしれないが、ヒロインが死ぬことによって俺(主人公)とヒロインとの対幻想が永遠化されるという意味では、後者、すなわち無害な共同体からの分離がこれに近いだろう。 

で、このことに加えて、久しぶりにエロゲーをやることによって観察された感覚として、実は物語の主人公として据えられているのはいわゆる俺(主人公)ではなく各ヒロインなのではないか、というのがある。もちろんこのことはこの『星空のメモリア』にだけ当てはまることなのかもしれないが、やってると俺(主人公)は、顔が良くて頭も良く云々と初期ステータスが非常に高いのはまあエロゲーに良くあるお約束の一種だとしても、あまりに臭いセリフを吐き過ぎだし、歩けなくなったヒロインをいきなりお姫様だっこしたりとかするし、ユーザーとの同一化を阻害するとしか思えないような行動をする。無論エロゲーにおいても形式的にはユーザーと俺(主人公)の同一化は必要なのだが、その同一化した先の俺(主人公)はあまりに空虚(当然ながらユーザーとの同一化を図るための形式として顔もろくに登場しないし声もないのだから)であるだけでなく、そんな透明人間はユーザーの意図に反して臭すぎるセリフを放ったりまるで少女漫画の王子様めいた行動をすらとるのである。そう、少女漫画の王子様なのだ。そしてヒロイン達は文字通り少女漫画に出てくる少女である。勿論、個々の「少女」描写、あるいは「少年」描写に関しては女が描く少女漫画と男が書くエロゲーとではそこにあるイデアが違いもするだろうが、大雑把な構造としては同じものを明らかに含んでいる。エロゲーユーザーは、キザな(あるいは天然ジゴロな)俺(主人公)がヒロインを「いじる」ことによって、彼女たちが赤面し、照れ、周章狼狽する姿を見て楽しむ。少女漫画にしてもそうで、まあ少女漫画にも色々あるとは思うのだが、ごく一般的な観念としての少女漫画においては、平凡な女の子の私(主人公)が、なぜか美少年達に言い寄られるとか、あるいはひょんなことがきっかけで色々な男子と知り合って求愛されるとか、そういう内容を含んでいるのであって、つまりエロゲーにおいても少女漫画においても「待つ客体」はヒロインの方である。男のほうは、そのヒロインを選ぶのである。エロゲー、というか、古典的にはときメモ的な形式を持つ恋愛アドベンチャーゲームは、例えばパラメーターを上げたりとか、ヒロインとのコミュニケーションを適度に図ったりとか、という行為を繰り返してヒロインの好感度を上げ、一定以上に好感度を上げるとヒロイン達が赤面し始め、知り合ったばかりのころとは違うしおらしい態度をとったり、照れたり、慌てたり、という様子を観察することに大きな醍醐味があったと言って良かろうと思う。俺(主人公)がヒロインを「いじる」という様式は、このようなギャルゲー(含エロゲー)がその形式から必然的に導き出した技法だという可能性がある。

このような疑似少女漫画的なギャルゲー的ラブコメの伝統が存在する一方で、ラノベとかマンガに描かれる萌えラブコメには美少女のほうから俺(主人公)のもとへ押し掛けてくる構造を持つ話が多いように観察されるのは誠に興味深いことである。例えばラノベの主人公は「鈍感」であり、主体的にヒロインを選ぶことが少ない。これもラノベが一本道しか持たないにも関わらず複数の魅力的で等価的なヒロインを登場させる必要性を持つことが必然的に生み出した合理的なシステムなのかもしれないが、やはりエロゲーとは対照的である。これまでなんとなくラノベを読んだりエロゲーをやったりしている中で、漠然とラノベとエロゲーは大体似たようなもん、と思っていたし、作家達の相互移動も多いことがその実感を裏付けているようにも感じていたが、改めて、当然のことながら全然そんなことはないということに思い至った。

今日は川越のソフマップに『辻堂さんの純愛ロード』買いに行きます。