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hkmaroのブログ

読書の感想など

古典であろうと欲するということと、古典であるということの違い

今日は昼飯はカレーを食い、晩飯は豚肉とサラダ。豚肉を焼いたのだが、焼くうちにどんどん脂が出て最後のほうはもう揚げてるような状態だった。

私が先日公開した小説について、古典の香りがする、という感想を頂いた。これは素朴にうれしく思ったのだが、これとは別に偶然古典であるということはいったいどういうことなのかを考えていたので、このように古典風である自分の文体をどう評価すべきなのかについて色々と考えたりした。

たとえば、昔の人の名作を我々は古典だといって称揚するわけだが、しかし当時書いてた人は何も最初から古典たろうと思って書いてたわけではないはずで、その当時できる限り良い文章を書こうと思って書いてただけなはずなのである。まあ、今日古典とされる作品の多くが当時すでに古典とされていた作品を意識しつつ書いていることも多いということも事実なのだが、しかし古典に用いられている語彙や文法と現代の古典好きが用いる語彙や文法にすら大きな隔たりがある場合も少なくないということを考えてみれば、古典を意識して、言わば擬古典的に書くということにはおのずから限界があるということも明らかなのである。結局いくら古典が好きだとかいっても、昔の人間の価値観をそのままトレースできるわけがないし、また自らが古典として称揚される時代が仮にやってきたとしても、その未来の世界では現代当然に通用している語彙や文法は様変わりしていて特別な読書の努力を要する文体になっているであろう。

つまり、古典だ古典だといっても、古典に固有な一つの形式が存在するわけではないのだ。古典といっても、おのおのの古典やその作者は、それが書かれた当時において最大限の努力をしているに過ぎず、というかそうすることしかできないわけであり、古典は、その形式によって古典と呼ばれるわけではない。これは非常に重要なことだと最近おもっているので、もう一回書くが、古典はその形式を持って定義されるわけではない。もっと言えば、古典と形式に必然的な連関は存在しない。さらに言えば、古典と形式は関係がない。古典の形式なるものが仮にあったとして、それを取り入れて文章を書いたとしても、それは単に古典っぽい文章を作ることになるだけであり、そういうのは言わば「後世の贋作」に過ぎない。古典がなぜ古典なのか、ということをよくよく考えると、それが後世に古典として見出されるからなのであるからなのは自明として、ではなぜその古典が古典と認識されなければならなかったのかという問いが生まれるのだが、それには汎時代性というか、まあ反時代性と書いてもいいのだが、歴史を超越する要素があるからだと結論せざるをえない。

ではなぜ古典が歴史を超越するのか。まず最初に考えられるのは、古典がどの時代にも当てはまる普遍性を持つからだ、という説である。しかしながら本当に古典が普遍性を持つのであればいやしくも古典と名のつくものは全世界的に広がらねばおかしい。しかるに、古典の中には国際的に広まらない古典も存在する。ゆえに必ずしも古典は普遍性を持つものとは限らない。
次に考えられるのは、古典の共同体主義的転回とでも言おうか、古典を楽しむ我々の主体自体が、実は古典によって構成されてきたからその古典を素晴らしいと考えるのだ、という説である。共同体主義ロールズ自由主義に反対する形で有名になったのだが、ロールズ自由主義は無知のヴェールというものを想定し、自分が社会の中で良いポジションにいるのか悪いポジションにいるのか、つまりどんなポジションにいるかわからない状態(無知のヴェール)で、人々が在るべき社会を考えた場合、必然的に導き出される正義が存在する、というような考え方である。が、共同体主義は、何が正義か、とか、何が良いのか、という判断を下す主体の価値観自体が共同体によって構成されているのだから、無知のヴェールなどという仮定はナンセンスだとする。理念としてどちらが正しいのかとは別として、事実として正しいのは共同体主義の認識だ。それゆえ、古典がなぜ素晴らしいのか、という問いに対しては、その古典を素晴らしいとする考えが共有された共同体内部で我々が育ったから、そういう共同体において私という主体が構成されてきたからだ、と答えることが可能になる。そういうトートロジカルな関係が読者と古典の間にはあり、この関係性を三島由紀夫は文化意志と呼んだのだと思う。

そして私は文化意志によって連なってゆく古典群にも価値を見出しつつも、より高等な古典は普遍的な古典だと考えている。外国人が読んでも未来人が読んでも評価するもの、それが古典である。もちろん、厳密にそんな良いものは存在しえない。外国人が読んで古典の正当な価値を理解できるわけがない。しかし、正当でなくとも何がしかの部分だけでも万人が共有できるような内容を持つ作品は稀有でありそれだけで大きな価値があると思うし、またそれを読む主体が自由に主体の願望を投影できる便利な性質を持つ作品も、読者の誠実さを涵養する助けには全くならないかもしれないが、そのような便利さが古典の「普遍性」の根拠として称揚されても良いのではないかと思う。このような都合の良い投影を許す作家の代表例がフランツ・カフカである。