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hkmaroのブログ

読書の感想など

人間は何をなすべきかという問いについて

何をなすべきか、というようなことを考えるのはおそらく人間だけである。生きるということに目的因のようなものはない。ただ生きているだけである。しかしそれだけでは人間は満足しない。動物たちのように、ほとんど快不快だけが行動原理となるようなありかたでは、人間は満足しないのだ。その、快不快を超えたところにあるようなものが人間の文明を豊かにしたのだと推測するのだが、もしかしたら非常にマクロな視点でみたらそんな快不快を超えた行動原理も結局は人類という集合的な有機体の快不快に還元されるのかもしれない。しかし、そういうマクロな視点は人間にはほとんど持ち得ないだろうから私には考えることはできない。だから、快不快を超えた、人間的、精神的、理性的、と呼ばれる人間たちの習慣が、結局合理性や効率性という名の動物的な新たな快不快的行動原理に陥ってしまうのは私にとって不可解な謎である。こうした、アドルノとホルクハイマーの『啓蒙の弁証法』の言い方で言うならば、啓蒙が神話化した状態は、西洋の知識人たちには最終的にファシズムや全体主義に行き着くと考えられていたようだ。ということは、あえて飛躍したことを述べるならば、「人間は何をなすべきか」という問いを問うこと自体が、最終的に「これをなすべきである」という断言的な口調とともに全体主義化していくとも言えるのではないだろうか。むしろ、「人間にはなすべきことなど何もない」という無為の発想こそが啓蒙の神話化を、合理性という名の野蛮を抑止する手段となるのかもしれない。人間も草木や動物と同じように朽ちていく存在であり、快不快を超えた何かを思考しているように主観的には思っていながら、結局のところその理性は建前でしかなく快不快的基準に従って理性を運用しているというのが本当のところなのかもしれない。そうすると、無為であることこそ本来的に快不快を超越するのだという逆説の余地が生まれる。無為であることとは、文明に対して待ったをかけることであり、ときに文明に対して反対することであるが、しかしそうすると無為と野蛮がどうちがうのか、という疑問も生ずる。だが、「なすべきことなど何もない」という発想をするのもやはり人間だけである。啓蒙の神話化に陥らない思想とは、言い換えれば真に人間的な思想とは、一切の人間的なるものの観念を相対化し続けることなのかもしれない。人間性を固定化することこそが他ならぬ人間の一番の敵である。合理的な発想のつまらなさは、その等価性にある。極言すれば、人間は合理的に生きている限り静的であり死んでいるのと変わらない。あるいは、文明の発生と、現代文明との両者が、共通した人間性によって支えられていると考えるのがまちがいなのかもしれない。文明がもはや第二の自然になった、という言い方があるが、現代の人間が考えるべきことは第二の自然の行動原理である合理性という名の快不快の外に出ることであり、それがきっとあたらしい文明観を作るのだろう。望んで貧乏になり、望んで田舎に暮らし、望んで不健康な生活をし、望んで会社を辞め、望んで死に近づくことは、新しい文明への実験とも言えるかもしれない。それすらも、つまり「脱サラ」「エコ」「ストリート」等などの合言葉すら商業的な合理性のうちに回収されうる現代、新しい文明観を考えることは非常に困難なことだ。