hkmaroのブログ

読書の感想など

イモウトノカタチ

イモウトノカタチ』というエロゲーをやり終えた。

ミータ_720x120

以下でネタバレをします

なんかネットではアフターストーリーにミータのがない! 詐欺だ! っていうんで盛り上がっているらしいがこれはデマである。真幸アフターは実際にはミータアフターであり、真幸が一切登場しない。というか、真幸とミータにはアフターストーリーは実質ないようなもんであり、それに相当する話はエンディング後のエピローグである。ちなみに真幸というの「まゆき」であり「まさち」ではないし、おっさんではなく美少女である。

久しぶりにエロゲーをやったからか、色々と考えながらゲームをやった。私自身に関心のあることがらにひき付けて言うと、ミータの存在がやっぱりこのゲームでは特別に重要で、ロボであるという設定がその他の人物の内在性としての人間から差異化するために用いられていて、このことはもちろんドラマにロボ設定を生かすためには必然的に要請されることだし、そうであるからこそ人間外のものが非常に予定調和的な形ではあるが示されていてよい。そもそもロボットが人間のために自己犠牲的に何かをする、という予定調和自体が人間的な内在性からみた超越的なものに対する信仰や、畏怖や、不可能性を表現していると言える。神話に登場する英雄たちの自己犠牲や、マンガに登場するヒーローたちの自己犠牲にも似たような要素がある。

ミータのその人間外的な要素がロボ設定が必然的に要請するどこにでもある予定調和だとしても、そうであるからこそロボ表象が一般にどんな意味で用いられるのかを分析するにあたって参考にはなる。昔から私はロボ娘的なキャラにひかれる傾向があるのだが、これは以前にも手塚治虫『メトロポリス』についての日記でも書いたが、彼女らが人間以上に人間的だからである。人外モンスター娘も機能的には同じものを表現しうる(文字通り「人外」なのだから)が、しかしモンスター娘がオーガニズムとしての内在性や有限性を持つ限り、それらはオルターな人間性とでも言うべきものへ収斂してしまう可能性もあり(たとえば映画の『アバター』とかはそういう話だった気がする)、あらゆる人外設定の中で最も重要なのはロボであると私が考える所以となっている。ロボ娘は現代の神のようなものだ。その昔の神話が神や神秘に見出していた超越性が、幾分かは短絡化された形ではあるが、現代の物語においてロボに見出されている気がする。たとえばロボは都合のよい拡張性を持つ。その拡張性はロボに人間身体の有限性をはるかに超えた能力を発揮させる。機械仕掛けの神、という言葉があるが、ロボキャラクター達は自身が機械仕掛けであるからこそ、神のようにご都合主義的にドラマ内で機能することができる。『イモウトノカタチ』においてもそれは例外ではなく、ミータは人間には不可能なミッションを自己犠牲的に達成する。ドラマ内において、常識的に期待されえない要素を持ち込むこと自体が必然的に人間外的な何かを呼び寄せずにはいない。このような「荒唐無稽」はロボが出てくる物語に限らず、まさに神話においてもそうだし、あるいは「平凡な主人公」がモテまくるラブコメや少女マンガにおいても同様だろう。だが、その「荒唐無稽」を出し惜しみなく呈示してしまうのがロボ娘たちなのではないだろうか。しかし、ロボはなぜ「ロボ娘」でなくてはならないのだろうか。もちろん、それを書き、読む主体のジェンダーが関係するから、という言い方もできなくはない。しかしながら、たとえばエロゲーは作る者もプレイする者も大抵男だし、多くの場合そこに出てくるロボ娘は性の対象なのだが、ではなぜロボは性の対象であるロボ娘として登場せねばならないのであろうか。

それに対するヒントのようなものが、このゲームにはあったので、それだけでも収穫があったと思う。真幸や美幸や千毬といった妹たちは、独占欲や嫉妬の感情に支配されていて、それがかわいらしいやきもちに留まるならまだしも、真幸においては見るに堪えない醜状じみた安いドラマを演じさせることになってしまう。それに対するミータの無頓着さ。もちろんミータ自身はアフターストーリーで自分の中の嫉妬の感情についても吐露しているが、だがドラマ内において人間の女たちのように取り乱すことはない。これはある意味で主人公の浮気を許してくれる都合の良い非実在美少女像とも言えるものなのではあるが、それにしてもこのようなミータの姿にはいったい何がロボ娘に仮託されているかを少しは示しているように思える。それはありきたりな言葉で言えば母性のようなものだろう。しかしより正確な言葉で語るとするならば、全く人間的なことを超越してしまったもの、そうでありながらこれ以上ないほど人間的なもの、である。当然これはユーザー達の幻想を受け止める都合のよさと無縁ではない。しかしながら人間的な嫉妬の感情や独占欲を「つまらないもの」として一蹴してしまうような独特な力があることも確かなことのように思われる。このようなロボ達との恋愛のありかたは、常識的な恋愛観を解体し、人間の中にある欲望をそのまま肯定してしまうような危険な姿勢とも取れる。平たく言えばヤリたいからヤる、という態度の肯定だ。実際、ミータのルートにおいては最終的にミータとも真幸とも主人公はヤリまくるのであって、しかもそのことが極めて円満な日常として描かれる。

とはいえこういう3P的な奔放さがエロゲーにはよくある結末だというのも事実であり、そこに過大な意味を見出すのは早とちりかもしれない。それに、このゲームはシナリオは未完成のままだし、金太郎飴的なラブコメシーンが延々と流れるし、面白いかどうかといわれたらかなり微妙だったと答えるしかない。それでもミータはいいね。まあ最初からミータのために買ったしね。